思い込み

 一瞬のうちに目を充血させたかと思うと涙が吹き出る。懸命にこらえようとするのだが、家族の前で気丈に振る舞っていたぶん、一気に堰が崩れ落ちる。 ここ数日僕は毎日その女性の涙を見ている。あるトラブルを自分で勝手に癌だと思いこんでいるのだが、その思い込みをうち破るために僕は四苦八苦している。どんなテーマでも同じだと思うが、思い込みを翻すのはかなり難しい。どう説得しようか、考えられる手段は全部駆使してみるが、涙を止めることは出来ない。合計すると何時間も向かい合って話をしているのだが、少しだけ安心したという束の間の解放感が関の山だ。もっと解放してストレスを全部薬局に置いて帰れるくらいにしてあげたいのだが、帰る姿はいつも後ろ髪を引かれている。出口辺りで一瞬立ち止まり何かを口ごもる。そんな背中を毎日見ている。  大病院にかかっているから、検査方法や治療薬のことなどを聞いていただけだが、究極の思い込み病を治す方法は、そのトラブルを治すことだと気がついた。現代医学で好転しないから癌だと思いこんでいる。だから漢方薬で治してあげればいいのだと気がついた。漢方薬なら今受けている治療の邪魔にもならないだろうから。医学的な知識も励ましも慰めも、思い込みの前では歯が立たない。唯一の方法はトラブルが治りそうと希望が持てる状態になってもらうことだ。僕は昨夜、今度病院に行く日までの漢方薬を作った。昨夜から飲んでいるはずだ。  ところが今日はやってこなかった。ひょっとしたら何か良い反応が出てくれたのだろうかと期待している。悪化し続けていたから毎日やって来ては不安を口にし、涙を浮かべていたのに今日は顔を見せない。あの辛そうな顔をする必要が無くなったのだろうかと淡い期待も寄せるが、薬局に来る気力もなくしたかと心配にもなる。今度病院に行ったら、心配が払拭されてルンルンで帰ってくると確信を持っているが、それまでに思い込みで凍り付いた心を溶かす事が出来る漢方の実力が欲しい。