理解

 今日も玉野教会のキム神父様のパクリ。こんなにいい話は独り占めにするにはもったいない。英語に堪能な方は知っているだろうが僕はさっぱりだから良い話を教えて頂いたと一人感激している。 英語のunderstandは理解するという意味だが、その言葉の成り立ちはunderにstandすること、すなわち、相手の下に立つと言う意味なのだそうだ。相手よりへりくだって初めて理解できると言う意味だ。  となると、上から目線では理解するなんて言葉は使えないって事だ。普段偉い人達がしばしば使っているその言葉に真実味がないことは何となく伝わって、空虚に響くことがしばしばだが、その理由が分かった。せめて対等にまで降りてこなければその言葉をそもそも使う資格はないのだ。資格がないのに使っているから違和感が甚だしい。 僕は過敏性腸症候群の方に薬を初めて飲んで頂くときに、過敏性腸症候群になったからこそ得たこともきっとあるとしばしば書く。ああ、あの文章はきっと今日教えて頂いたunderに立つと言うことを自然に、あるいは、否応なく体験させられていることに通じるのだと思った。青春の落とし穴に落ちて穴から空を覗くような位置にたたされて、それで気付きがないはずがない。恐らくそのまま幸せ一杯で暮らしていたら決して知ることができない価値観に出会う。それもかなり上質の。  今、苦しんでいる人に耐えてなんては言えない。その苦しみを幾分でも軽減するのが僕の仕事だし、その苦しみのいくつかを一緒に背負うほど僕は善人でも超人でもないから。嘗て同じ青春の落とし穴に落ちて、その経験が、いやその経験だけが人の役に立っていることを思えば、せめてunderにstandすることだけで許して貰えないだろうか。