棒グラフ

 長い間、運良く経済が成長してきたものだから、人の心や行いまでも同じような指標で測ることに慣れてしまったのだろうか。右肩上がりが当然のような時代があったものだから、人の精神までも同じようなことを期待される。競争、成果、成長、効果、過程、目標、効率、生産性・・・最早経済用語が日常に進出し、日常のたわいない行為さえも棒グラフにしようとしている。 質が悪いのは、そんな時代の恩恵を全く受けていない世代までも同じ尺度で測ろうとしていること。水の重さを巻き尺で量るようなことをしているから、量る方も量られる方もとんちんかんだ。しょうがないから自分とは異なるラベルを貼り、買い物籠にも入れようとはしない。商店の棚に並んだ新製品に一度は手を伸ばしてみるが買う勇気がないのと似ている。 それにしても威勢のいい老人に成功体験ばっかりを押しつけられたらたまったものではない。そもそも今とではウナギが、いや、土壌が違う。違う土壌で米農家と麦農家がお互い競っているようなものだ。競うのではなく米は米、麦は麦なのだ。米は麦に米になるようには言えないし、麦も米になろうとは思わない。米粉で強引にパンやうどんを作っても麦を食べたい人は麦を食べる。  お節介なほど力が有り余っているのはすごい。その力の源を少しは残しておけば良かったのだが、いいものは全部自分たちが漁っている。それでいて精神論をぶたれたりしたら立つ瀬がない。朝焼けより夕焼けに親しみを覚えたって構わない。昇る生命力より沈むはかなさに我が身を重ねることにためらいはいらない。多くの営みを経済で語ってきた時代はどこかの国が引き受けたみたいだ。あの時代を知らない人達に棒グラフは似合わない。