介護

 日曜日の昼下がり、広いロビーは全て電気を落としていて、無人の精算所や投薬カウンターは静まりかえっていた。僕は母を待っていたのだが、車いすに乗った男性の老人とそれを世話する老婆が静かに立ち止まっていた。薄暗い中で何を見ているのだろう。ただ時間が過ぎ去ってくれるのを待っているだけなのだろうか。寂しくもあり、又心温まる風景にも見えた。 しばらく動かなかったが、ゆっくり動き始めると僕の勝手な想像が激しく裏切られた。後ろから押している老婆が、自分で椅子を漕がない老人に向かって罵声を浴びせ始めたのだ。見ず知らずの僕が近くにいるからさすがに遠慮して声を潜めているのだが、悲しいかな全部僕には聞こえた。車いすの老人は、明らかに脳のトラブルの後遺症のように見えた。最初、鬼になってリハビリを促しているのかと思ったが、続く幾多の汚い言葉でそうでないのは簡単に理解できた。積年の恨みを晴らすかのような言動に空恐ろしさを感じた。何が二人の間に嘗てあったのか分からないが、今がチャンスとばかりに不自由な男性を罵倒している。聞くに堪えられなかったが、ひょっとしたら多くの夫婦の行く末を見ているのではないかとも思った。多くの介護は密室で行われるから、このようなことは結構ありふれているのではないか。表に出ないだけで、多くの葛藤が隠されているように思える。お互いが便利で結び付いている時には隠れてしまうが、お互いが足かせとなったら憎しみが噴出する。勝手な美談はあっという間に現実のいと恐ろしき光景になった。 個々の営みに介入することは出来ないが、老老介護の悲惨さは新聞紙上でも後を絶たない。国が介護を担うと決めた頃、それを激しく罵倒していた婦人がいた。ご主人の肩書きから幸せを保証されているような人だったが、つい数年前、忌み嫌っていた制度に守られて逝った。元気な頃が後の生活を保証してくれるわけではない。川に路肩をさらわれる道もあれば、落石が襲う崖の下もある。痩せこけた老犬に越えられない峠もある。  エレベーターに消えていった老夫婦に幸あれとは思えない。幸そのものの定義が全く思いつかない。音のないコンクリートの中でいくつもの最期が行き倒れていた。