おばんです

 山形の女性から夜メールが入って「おばんです」と書いてあったから、慌てて当方は「おじんです」と書いて返事をした。 数回メールをやりとりしているが、彼女の文章の中にお嬢さんを表現した言葉が沢山出てくる。「責任感が強く、情深く頑張りや。自慢の娘」「 素敵な大人になりつつあります」等々、何の照れもなくとても自然に言葉が流れている。親子の良好な関係が想像できるようだが、このように素直な感情を口から出せる人が時々いる。溢れんばかりの愛情を注いでいるのだろうが、こういう人に限って恐らく絶妙の距離感を演出しているのではないかと思う。その事も又行間から察することが出来る。溺愛なら誰にだって出来るが、本当に大切にすることは難しい。信頼しているからこそ離れなければならないし、気になるからこそ無関心でいなければならない。 僕の前でそれこそ何百回とお子さんのことを非難したり嘆いたりした女性がいる。昨夜そのお子さんがある病気の相談にやってきた。もうお子さんとは言えないくらい一人前の社会人になりつつあるが、母親にとってはいつまでも出来の悪い子なのだろう。母親の多くの嘆きを聞いているうちに、僕は息子さんの人物像を勝手に作り上げていたが、30分くらい話しているうちに、その僕の作り上げた人物像が母親の単なる懸念の集積だと気がついた。彼は社会で十分通用する礼儀と知識を持ち合わせていた。下手な大人より数段礼儀正しかった。勉強が苦手で高校を中退したが、それが何のハンディーになるだろう。授業内容が何も分からないのに教室に留まっておく方がもったいない。今彼が獲った魚で多くの人が幸せな気分を味わっている。それで充分ではないか。朝の3時に起きて海に出る。それで充分ではないか。将来、漁だけでやっていけるのだろうかと心配なんですと悩みを漏らす青年に、母親が憂うことは何もない。いい青年になったねと僕は心から母親に伝えたかった。そして伝えた。母親は喜んではいたが半信半疑で、「家の中ではむちゃくちゃよ」と答えた。そう、むちゃくちゃが許される家こそ最高なのだ。家の中でも直立不動では床の間の柱が折れてしまう。  「おばんです」尻上がりに上昇調の抑揚なら可愛いが、前から2番目にもっとも強いアクセントが来るとまだ若いお母さんの心の柱が折れる。