その時、僕は偶然薬局の入り口付近にいて、荷物を整理していた。娘は調剤室にいた。けたたましくパトカーがサイレンを鳴らして近づいてきた。と言っても、警察署はすぐ近くだから、パトカーはどこかの現場に向かうために薬局の前を通り過ぎるだけなのだ。薬局の前を白黒のパトカーが通り過ぎて、その後覆面パトカーも続いた。覆面パトカーを運転している警察官は笑いながら薬局の方を見て走り去った。その間、1秒あるかなしかだと思うのだが、その様子がとても面白かったので娘に言うと、娘も同じことに気がついていたみたいで「余裕だなあ」と即座に言葉を返してきた。  パトカー2台が急行するのだから何か事件なのだろう。しかし現場に向かう警察官に緊張感は感じられなかった。目と目があって離せなくなるような感じで通り過ぎた警察官に、僕は何故か心が和んだ。この心の隙に救われたような気がした。どの程度の事件で出動したのか分からないが、そしてそれが彼らにとっては日常のありふれた行動なのか知らないが、笑顔とサイレンがどうしても結びつかなくて、その結びつかないものを露呈した一瞬の光景がサイレンで緊張するこちらの小さな動揺を解除した。張りつめたままでは人は耐えられない。ちょっとした心の隙があってもいいのではないか。何か不都合なことを起こせば必ず責められる心の隙だが、僕は結構その緩んだ状態が必要ではないのかと思う。他人を非難することで生活を成り立たせている職業の人達だって、失敗だらけだ。こちらは叱責する手段を持っていないから声なき声で終わるかもしれないが、結果的にそれが許しにもなっているのだ。果てのない失望は、時として許しに繋がる。人がふと見せる心の隙にこそ、人と人の接着剤は潜んでいるし、許し合う寛容も訓練される。 必ずしも緊張感のぶつかり合いが生産的だとは思えない。どこかの町で無実の罪を背負った人も、背負わせたひとも、ふと気持ちをどこかで抜いていたら取り返しのつかないことにはなっていなかったかもしれない。牛窓に帰り若い警察官と沢山知り合った。勿論多くが下っ端だったが、誰もが直球好きで、カーブが下手だった。だからこそ逆の僕と気があったのかもしれないが。さて運転していたのは誰だったっけ。