教科書

 いやはや誰にも悩みはあるものだ。世間的には何不自由ないと言うよりも、恵まれすぎくらいに見える人が、昨夜電話の向こうで話し続けた。話すことでストレスを幾分か捨てようと思ったのだろうが、幾分どころかかなり捨てれたのではないかと思う。こちらにずっしりと移って来たから、このずっしり分はあちらが軽くなっているはずだ。  家庭内のトラブルは外に出ないから、なかなか理解しづらい。外に出たときには悲惨なニュースとなって新聞紙に載ったりする。その人もそれを心配していた。こちらから見ていたら、もっともその類から遠そうな環境にいる人なのだが、こと家庭のこととなると、どんな状況証拠も役に立たない。  解決方法はと聞かれたから、愛情を持って見守ることなどと教科書みたいなことを答えた。何人かが同じことを助言してくれたと言った。気の利いた答えなんか見つからない。単純だからこそ困難な方法しか思い当たらない。  家庭から分かち合う食事が消えた。家庭から笑いが消えた。家庭から信頼が消えた。家庭から希望が消えた。残ったのは畳に残ったシミと人々の心に寄生した青カビだけだ。