開放感

 息子と娘がそれぞれ大学に合格した時と、国家試験に通って資格を得た時を上回る、或いは迫る感動は僕の人生にはなかったので、日々淡々と暮らしている。と言ってしまえば、人生でわずか4度しか喜んでいないことになるが、そんなものかもしれない。例えば自分の時も同じことを経験しているのだが、どちらかと言えば次善の策みたいな感じだったから、それほど感激もなかった。単なる開放感くらいなものだった。そのわずか4度でも、本当の喜びなんてのはほんの数分のことかもしれない。重圧からの開放感はその後しばらく残るだろうが、喜び自体は一瞬だったような気がする。何があろうが時間は切れることなく流れていてやらなければならないことは個人の理由など考慮はしてくれない。実力があろうがなかろうが目の前にいる方の役に立つ、このことだけが何十年も途切れることなく続いている唯一の営みなのだ。押し寄せるようにやってくる時間はある意味では救いかもしれない。喜びも一瞬なら悲しみも一瞬ですむから。もちろん悲しみは深く潜行するが、嵐の海のように荒れ狂う日々はやがて時間が運び去ってくれる。時間に追われると言うことは、あながち負の側面だけではないのかもしれない。一生時間に追われれば、潜行したものさえ忘れて生きていけるのかもしれない。  今日二人目の孫が生まれた。大事業をやり遂げた母親に感謝する。男は女性の偉大さを永久に越えることは出来ない。生命の誕生の度に思う。どんな世界に船出するのか知らないが、好ましい世界だけが準備されているとは言えない。自然を克服しようとした人類が、どのくらいの返り討ちを浴びるのかが実証される時代だと思う。そんな時代に生を受けた幼子に、負の遺産を残している人達の責任は大きい。責任など感じている風は全くないが。いくら偉い人にだって、子や孫、大切な知人はいるだろうに。  とにもかくにも、又一つの年が終わるが、古本屋の片隅で見つけた手垢で汚れた単行本の1ページをめくるくらいの意味しか持っていない。風習にとらわれない自分の性格に感謝する。