当たり前

 昨日閉店間際に入ってきたお母さんと1時間くらい話をした。お子さんの病気の為にいただいた薬に何か不安を感じていたみたいだった。大病院の薬だから基本的には良質のものが多くて、医師や薬剤師、それも優秀な複数のかたのチェックの元に投薬されたものだから、本来なら安心して飲めるのだろうがそのお母さんは何かふに落ちない様子だった。僕はお母さんの不安を聞きながらゆっくりと薬を調べた。お子さんの病気のためにどこのお母さんもそうだろうが心労がたまっていた。それを喋ることで吐き出せば、少し元気になってお母さんが家に帰って行き、その姿を見て子供も回復し易くなる。  ゆっくりと雑談を混ぜながら話しているうちに、僕も疑問を発見した。医師の説明と薬剤師の説明と、渡された薬の説明書が一致しない。どのように間違ったかも推測がついた。お母さんと相談して、最善の服用方法を考えた。病院の指示とは異なる。こんなことをしたら、医院とくっついて開業している薬局なら医師に怒られるだろう。でも幸い僕は特定の医師の影響を受けていないのでその点自由だ。地元の患者さんが元気になればそれでいい。  今日、受診するらしいので薬のことを尋ねたらと勧めていたら今日病院の薬局で尋ねたらしい。案の定幾人かのチェックをすりぬけて、間違った薬が出されていたらしい。こんなことはよくあることなのだ。残念ながらどんな熟練した薬剤師でもおこしてしまう。むしろ、僕はお母さんの危険予知能力に驚いた。母親の力なのだろうか。  あらゆる媒体、あらゆる機会を利用して怪しげな影が迫ってくる。しかし、その怪しげなものを見抜く力が全体的に現代人は落ちている。きれいで当たり前、安全で当たり前、美味しくて当たり前、早くて当たり前、便利で当たり前、上手で当たり前、当たり前で当たり前、その当たり前で又当たり前。本当は、当たり前でないのが当たり前なのに。