播但道路

兵庫県を縦断する播但道路は中国山地の東端に位置するのだろうか。山深い中、いくつものトンネルを潜り抜ける。  娘が牛窓に車で帰ってきたので、山陰への帰り道は同乗して送り届けた。と言うより助手席に乗って彼女の居眠り運転を防ごうと、心配性が単にでただけなのだ。娘はそれを嫌がらずに受け入れてくれるからありがたい。家にいて、無事着いたかなと心配するよりは遥かに気が楽だし、居眠り防止の実利性もある。  道程の半分くらいを過ぎたところで、運転を交替した。車を走らせてすぐ座席の位置が不具合なのに気がついた。右手をハンドルから離して、座席の下のレバーをひいた瞬間、車が一瞬左にぶれた。慌てて右に戻すと又右にぶれた。その間1秒もあったのかどうか分からない。ほんの一瞬と言ったほうがいいだろう。娘も妻も大きな声を出した。時速80kmは出していたと思うから、ほんの小さなハンドルの揺れでも車が大きく反応してしまった。僕が普段乗っている車は、ハンドルも車体も重く、ちょっとしたハンドル操作くらいで動揺はまったくない。ところが娘の車は新車で車体もハンドルも軽い。以前僕もその車に半年くらい乗っていたので分かっているはずだったが、今の車の重さに慣れてしまっていた。今思い出してもぞっとする。軽はずみな行動だったと思う。無事送り届けるべく同乗したのが、命さへ奪ってしまいそうだった。  僕は今回のことを含めて3回、命を失いそうに、又奪いそうになったことがある。車の持つ便利さよりも危険性の方に目がいく僕でさえ、避けれない魔の瞬間がある。幸運にも、実際には事故を避けれたが、避けれたこと自体がほんの偶然なのだ。逆の結果だったら、今こうして安穏としてパソコンの前になんか座っていられないだろう。何気ない日常のささやかな行動さえ、失っていただろう。その瞬間になにの力に救われたのか分からない。生きて何を為せと言われているのか分からない。  垂直に切り立つ山がいくつも連なり、凛として杉が岩の上に根をはる。古代人がこの地に如何に住み付き、何を糧に生き抜いて来たのかしらない。しかし、獣の住み家に足を踏み入れた人間は、この鋭角にそびえる山々に神が宿ると感じたに違いない。僕のハンドルを戻してくれた力も、古代人が想った力と共通だったような気がした。