道具

 今日、ある人を見舞いに岡大病院に行った。1階にコーヒーとケーキのお店があった。どこかで名前を聞いた事があるし、そのよい香り、スタッフの洗練された動作などで、本格的なコーヒーとケーキを売る店だと分かる。壁に張り付いた狭いカウンターの中で3人の若者が働いていた。多くは持ちかえりみたいだが、廊下にテーブルがいくつか並んでいて、そこでコーヒーやケーキを頂くことが出来る。  男が1人と女性が2人。3人とも20歳を少し回ったくらいだろうか。3人ともとても好感が持てたのだが、そのなかの一人の女性の印象に僕はくぎ漬けになった。言葉で表現出来るかどうか自信はない。美しい顔立ちではない。華やかさでもない。そんなものいつか枯れるに決まっているから、評価の中心にはなり得ない。そんなものが重要だとしたら、テレビや雑誌の商業的な映像を眺めていればいい。こぼれる笑顔、思いやる言葉、敬意、自然体、いやいやこんなものでも言い表せない。目を閉じれば彼女の顔が浮かぶ。僕は彼女の存在がどれだけ人を救っているのだろうと思った。1日何人の人がそのコーヒーショップの前を通るのだろう。患者さんは勿論のこと、医師、看護師、薬剤師、スタッフ、見舞の人、薬のセールス・・・大病院の一種独特の緊張感や、絶望感を彼女の存在がどれくらい払拭しているのだろうと考えた。彼女の人間的な資質を醸造した家庭とはどんなものなのだろう。多くの愛情を注がれたに違いない。多くを許したに違いない。  僕は、大学時代以外はかなり勉強した。多くの知識は、少しでもお役に立つ上での道具だ。僕らは知識と言う名の道具を持たなければなにのお役にも立てれない。勉強も知識も目的ではない。よりよく生きるための道具だ。何十年かけて身につけた道具も、純真で飾り気のない一人の若い女性の醸し出す心の香には太刀打ちできない。