3階から、何気なく駐車場を見下ろしていた。以前畑だったところに土をひき、車が数台利用している。何気なく見ていたはずなのに、僕はある物をずっと見ていた。僕の視線が捕まえたのか、視線が捕まえられたのか分からない。草の中から、茎を高く伸ばした白い花を結局は見ていたのだ。250坪の駐車場に数台の車しか利用しないので、周りはタイヤに踏まれることもなく、草が生命力を誇示している。幾種類の草が、幾本の草が駐車場で生命活動を行っているのか分からない。それなのに僕は、いやほとんどの人がそれらを「草」と一くくりで呼んでしまう。僕が見ていたのは、その草の中から延びている白い花だ。立った1本の花なのに、存在を誇示している。  しかし、僕はその花がきれいだとは思わない。いや、もっと言うと興味がない。なるほど視線をひいたが、それは草の中に違う色があったからだ。草の緑を背景に白色が際立ったからなのだ。それよりも、何回も除草剤をまかれているのに何度も何度も蘇生する草たちの生命力に驚かされる。草は、白い花を引き立たせる為に生きているのではない。草は花になりたがってもいない。草は草でありつづける為に、固い土の中に根を伸ばし大地の生命力をいただく。僕も、おそらくこの文章を読んでくれているあなたも、所詮雑草なのだ。花にはなれない草なのだ。しかし、花にはならない草なのだ。