傲慢

 もしかしたら、2年前の夏の夜、母を連れて高台に逃げた時から、僕は守るべき人を失ったのかもしれない。一瞬のうちに海が陸に上がってきたとき、僕は必死で老いた母を守った。勤めて冷静を装いながら、恐怖で混乱しそうだった。僕一人ならなんとでもなることでも、老人には危険な状況の連続だった。わずか10メートルの距離を行けば軒下に隠れることが出来ても、吹き荒れる風にがけ下に飛ばされそうになることを考えると、じっと木の下に身を寄せ冷たい雨にうたれるしかなかった。あの時が僕が最後に人を守った瞬間なのかもしれない。その対象を、その状況を失った時、知らず知らずのうちに喪失感を醸造させ、無気力な人生に転落し始めたのかもしれない。  その後辛うじて僕の人生に緊張感を与えてくれているのが、僕が薬を作っている人たちなのだ。その人達の生活の何十分の一、いや何百分の一の精神的、肉体的な不調を解放して上げられるよう努力することで、僕は守るべき人の体温をかすかに感じられる。今、僕の回りに僕の体温を必要とする人はいない。僕をもっとも必要とする人が家族でなければならない理由はない。成熟し、自立した家族なら、もっとも僕を必要としない状況こそ望まれる。幸せを表現する場に僕は必要ないから。解決できない困難だけが僕を必要とする。  僕がお世話をさせていただいている人の何割の方に実際に役立っているのかわからない。自分では7割を目標にしているが、それより多いのか少ないのか本当のことは分からない。常に謙虚であろうとして来たが、T薬剤師に最近傲慢だと言われた。僕が応対しているのを聞いていて、素直に感じた感想だ。客観的に聞いているからその指摘は正しいのだろう。だとしたら、そのような応対をした人達に謝らなければならない。もし、僕の応対が傲慢だったら許して欲しい。僕に悪意はない。ただ長い間同じ仕事をしていたら、簡単になおせられるものと難しいものが分かってしまうことがあるのだ。その時に傲慢さが顔を出してしまうのだろう。  九州で、林道を走っていた車が鉄砲水に襲われ、父親と高校生の娘がなくなった。苦しかっただろうな。きっと仲のよい父娘だったのだろうな。父親には娘は宝なのだ。思春期いくら娘が父親を遠ざけても、父親にとっては娘は宝なのだ。自立して巣立つまで、守るべき最高の宝なのだ。苦しかっただろうな。何故貴方方が選ばれてその場にいたのだろうな。たった、1秒早くそこを通りすぎていればよかったのに。代わりに、守るべき人を失った人達を選んでくれればよかったのにね。