過呼吸

 夫婦どちらとも80歳を過ぎている。二人揃って薬局にゆっくりとした足取りで入ってきた。訴えを聞いてゆっくりとした足取りの意味がわかった。奥さんが骨粗鬆症で病院にかかったけれど、紹介された病院が遠くて行けないそうだ。一度検査に行ったけれど、帰ったら疲れが出て懲りたらしい。高齢の夫婦が、バスを乗り継いでいくには不便過ぎる。タクシーで往復すれば、それだけで一万円札が2枚飛ぶ。  奥さんは小柄でなるほど骨粗鬆症の条件を満たしている。物腰が柔らかくて礼儀正しい。ご主人はひたすらにこにこして常に笑みを浮かべている。耳が若干遠いのだろう、にっこりとするだけであまり話そうとはしない。家に若い人がいるのかどうか分からないが、恐らく同居はしていないと思う。都会でもそうなのだから、田舎で高齢者だけの家など珍しくもない。  煎じ薬をスタッフが作っている間に、僕は調剤室から二人を時々見ていた。ならんでソファーに腰をかけていたが、お互い会話はしない。10分くらい待っていただいたと思うが、僕は不覚にも涙ぐんでしまった。職業柄、僕は「老い」と毎日向き合っている。老いは、いずれ誰もが通る道だが、肉体的な能力を1つずつ返上する過程でもある。年令と共に体験を積み上げていくから知的な衰えは感じないが、肉体的には喪失の過程だ。しかし、僕が涙を誘われたのは、そうした哀歌ではない。僕は無駄なものを落とした老人の何とも言えない穏やかさが好きなのだ。欲で肥満し、ぎらぎらした人生のせめてもの懺悔として、老年期には他者を傷つけない徳のある表情を身につけたいものだ。  薬局を出て通りを横切るのもおぼつかない二人の後ろ姿は、人生とは何なのかと訴えてくる。失うことばかりを恐れて過呼吸に陥っている現代社会が範とすべき風を、二人は残していった。