中庸

 5月が目の前に見えているのに、この寒さは何だろう。漁師が、海水温が上がらないと言っていた。海水温が上がらないと、魚は岩場にじっとしたままで、獲れないのだろう。温暖化が言われるばかりで、あまり寒さについては懸念されない。暖かすぎることと寒すぎることを比べたら、寒すぎる方が何故か悲劇を想像し易い。寒と暖の持っているイメージによるところが多いのだろうが、想像の域ですら勝敗はついている。  心が凍るような事件が、毎日、新聞紙の上を通りすぎる。心温まる話しは伝播する速度があまりにも遅く、身の回りで善なる出来事が少ないかのような錯覚を起こす。ほとんどの人は善なる心で暮らしているのだが、主張することが苦手なものだから、一部の悪しき人達ばかりが目立つ。  小さい時にツベルクリン反応、BCG接種を通じ、結核菌に対する免疫をつける。弱毒性をもって、結核に対して抵抗力を身につける。成長期にあまりにも完璧な親に可愛がられすぎて育てられると、無免疫のまま社会に放たれることになる。そこで初めて、社会のバイ菌に侵され、へなへなとなってしまう若者がすくなからずいる。大事にされすぎるのは悪いことではないが、全くの無免疫だと、一気に感染して心身疲弊状態になる。幼少期に精神的苦悩状態を経験して、トラウマになってもいけないが、暖気ばかりに囲まれた成長もどうかと思う。  漢方は中庸を重んじる。熱を持っていれば薬草で冷やすし、冷えを持っていれば薬草で温める。上半身が充血していたら、下半身に血を下ろす。厳しすぎず、優しすぎない中庸を現代の社会が持てば、社会の冷気に身を晒しても、暖かい心を内包して生きることが出来る。二者択一を迫る単純化された社会こそが、中庸を重んじるべきだ。