真似事

 これには本当に驚いた。今までかの国の人が僕の車で何人も吐いたが、自他共に認める弱さを誇るその女性は、僕の車のドアを開けて乗り込んだ瞬間、ゲエゲエ言い出した。まだエンジンもかけていないのにもう酔うのかと、これには慌てた。念のため、ビニール袋を10枚くらい持って来ていたが、それでは足りそうにない。  慌てて僕は窓ガラスを開けて走り出した。すると何故かゲエゲエが止まった。乗り込んだときのゲエゲエも結局は吐かなかったみたいだ。  そんな滑り出しだから運転にはかなり気を使った。カーブではかなりスピードを落として車が傾かないように曲がる。信号で止まるときにはなるべく急ブレーキを踏まないようにする。発進は電車のように滑らかに速度を上げる。時に今日、綾歌のアイレックスで行われた第九のコンサートには、10月に来日した女性達を選抜して連れて行ったから、ほとんどの人が乗り物酔いの薬を飲んでの小旅行で、車に乗ればすぐ眠る。言葉も通じないので、観光バスの運転手さんみたいなものだった。ただ、四国フェリーによる行き帰りや、丸亀城、そしてうどん県のうどん、そして当然、第九のコンサートも想像以上に喜んでくれた。  何でも、丸亀は太平洋戦争で捕虜になったドイツ人が中国から送られた収容所があった所らしくて、その捕虜たちが第九の演奏をしたのが、日本での第九の始まりらしい。そうしたゆかりを公演の前に聞かせてくれた。なんとなくバックグラウンドがあることだけで、聴きに行った価値が上がった。  もう何回聴いたかわからないが、だんだん最終楽章以前の楽章の価値も分かってきた。今日はなんだか第3楽章までを理解できた気がした。少しずつ気がつかないが勉強できているのかなと、少しだけ嬉しかった。楽団やソリスト、指揮者、合唱の人たちに感謝だ。  ところでかの国の人たちには昨夜、通訳を通じて演奏が終わったらすぐに席を立つと言っていた。駐車場から出るのに以前大げさかも知れないが30分近くなった経験があるので、一番に出るためだ。しかし演奏が終わると感動で僕も彼女達も、拍手や声援を送らないわけには行かなかった。彼女達も立ち上がり大きな拍手をしていた。2階席はかなり空いていたので自由だったせいもあるが、立ち上がって拍手していたのは僕らだけだと思う。彼女達の偽らざる評価だと思ってとても嬉しかった。  ベートーベンと言う名前を全員知らない。クラシックの楽器の名前もほとんど知らない。指揮者の動きを真似しながら聴いている女性もいた。ほんの少しだけバスの運転手さんの真似事をするだけで、有意義な経験を積んでもらえる。職業以外で少しでも役に立てることがあるのは幸せだ。  

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