根こそぎ

 僕ら即席めんみたいなクリスチャンと違い、根っからのクリスチャンの方々は力みがない。恐らく手に入れたものではなく、元々そこにあったものだからだろう。この立ち位置はどう努力しても超えることは出来ない。
 今日は教会の清掃日。ほとんど役に立てない僕は時間を持て余していた。駐車場に止めてある車に戻り、御御堂を掃除している妻を、車の中で待とうか、車外で待とうか決めかねていた。小雨が降っていたので車の中で待つことにしたのだが、正面にかがみこんで草を抜いている二人の男性が目に留まった。それこそ根っからのクリスチャンの二人は、普段から教会を守っている。まったくの想像だが、幼い時から教会に通い、まるで父親のように、母親のように、キリストが存在していたのだろう。
 二人とも僕より年上の方で、特に一人の方は僕よりずいぶん年上だ。腰が痛いらしくて折り畳みの小さな椅子に腰かけて草を抜いていた。いや、正確に言うと、刃物のような道具で草をむしり取っていた。僕は雨が降った翌日に根こそぎ草を抜くのが好きなのだが、効率はすこぶる悪い。抜いた以上に新しい草が生えるが、根を残すと瞬く間にまた増えると言う公式にとらわれ、潔癖に根こそぎにこだわっている。やる気はあるが、勝敗は明らかで猪を招き入れるくらい草の方が勝る。
 その男性の小さな道具は、強引に土とともに草をむしり取ると言うもので、スピード感はある。便利な道具もあるものだと感心した。
 もう一人の男性は、懐かしいスタイル、鎌で草を刈っていた。経験があるのだろうとても自然な手さばきだった。
 能無しの僕は、二人のまるで景色のパーツみたいな二人の姿に見とれていた。そこにある人たちの何とも言えぬオーラに、もう何年も救われている。