風景画

 お墓に着くなり二人のベトナム人は、すぐにしゃがみ込み、砂利から少しばかり頭をのぞかせている草を一本ずつ抜き始めた。長く育った草なら簡単に抜くことができるが、春を待って顔を出した草はまだ掴むところが短くてなかなか抜きにくい。しかし二人は黙々とその作業を続けた。
  僕は墓の上に覆いかぶさるように伸びている竹を切っていたのだが、途中から一人が合流して、その作業もはかどった。従来なら春先の今頃でも、もう手が付けられない状態で、それを理由にまた手を抜いていたのだが、1か月に3回墓掃除ができた。彼女たちに助けられ、眠る祖父母や両親に顔向けができる。僕の子供たちの代わりを彼女たちがしてくれる。なんてありがたいことだ。まして今日手伝ってくれた二人は、昨夜わざわざ自分から墓掃除を提案してくれた人たちで、コロナを理由に町外に出ることを禁止されストレスがたまっていたのを発散する意味もあったのだろうが、僕には墓掃除が彼女たちにはごく日常のなすべきことなのだと感じた。なぜなら、習慣の違いがあるはずなのに何のためらいもなく、僕が期待している通りに動く。やはりかつては中国の文化が広がった国同士で、風習の共通点は多い。
 墓掃除の後、すぐ近くの海水浴場に行ってみた。幼い時にはほぼ2か月近く泳いでいた砂浜だが、釣りをする家族連れやカップルがゆっくりと流れる時間に身を置いていた。めずらしく僕自身もその風景画の小さな景色になっていた。