ゆるびニューイヤーコンサート

モーツァルトが好きと言うベトナム人の希望をかなえるために「ゆるびニューイヤーコンサート」に行ってきた。クラシックは第九とボレロ以外、生で聴いた経験がない。ましてモーツァルトの曲など思い当たるものがない。偶然耳にしたものはあるだろうが、いざ曲名を上げろ、口ずさめなどと言われても何も出来ない。それだけ縁がないというか無知なのだ。
 それなのに今日コンサートに行ったのは、モーツァルトが好きなベトナム人からいわば逆輸入しようと思ったからだ。クラシック音楽に親しむような環境はあまり整っていない国で、交響曲の番号を言っただけで曲が分かるほど好きになる理由を知りたかったのだ。僕が実際に聴いてどれほどの感銘を受けるのだろうと思ったのだ。もっと低次元の表現をすれば勉強したかった。
 前もって渡された資料に、楽章ごとの説明が載っていた。プロの解説だろうが、曲を聴いてそこまで感じることができるのだろうかと言う内容ばかりだった。恐らくそんな感受性はないことは分かっているから出鼻をくじかれる思いだった。例えば「ヴァイオリンがささやくように奏でる第一主題は、ロココ調の優雅な美しさをもっているが、フレーズの始めと終わりのオクターブ下降により躍動感も備わっている。展開部では緊張感もよぎるが、楽章を通じて高貴な空気が一貫している」こんな解説が延々と続き、読むだけで疲れそうだった。
 もうこうなれば居直って感じるままに楽しまなければならないが、楽しむという表現は適さない。全体的に優しい曲の流れが多いから、心が落ち着く感じがする。ただ、ここが一番哀しいところで、主旋律がなかなか頭に残らない。好きなクラシックなら、必ず真似て口ずさめるほど好きな旋律がある。ところが今日聴いた4曲はどこが主旋律か分からないのだ。恐らく明日同じ曲を聴いてもひょとしたら昨日聴いた曲だと分からないかもしれない。そのくらい素人には難しい、特徴を把握できない曲だった。
 ただ、それでも僕は自身がコンサートに行ったことも、ベトナム人を4人連れて行ったこともとてもよかったと思う。又同じように敷居が高くないコンサートを見つけたら、もっと多くのベトナム人を誘って一緒に足を運びたいと思う。いやいや本当は家族を誘って一緒に行きたいが、誰も同行してくれない、
 モーツァルトは分からないが、聴きながら多くの想いが頭をよぎった。そしてアンコールの曲のとき、それはクラシックと言うよりどこかで聞いたことのあるポピュラーのようでもあったが、群衆の中で生きながらも孤独に支配される人の生き様に涙をこらえることが出来なかった。まさかこれがモーツァルトの力ではないだろう。