素養

 9時間電車に揺られながら訪ねてくれた女性がいる。僕なら新幹線を使うが、高いという理由で頑張って会いにきてくれた。
 今だったら当然会社に受け入れてもらえるような些細な要求をしたばかりに、即刻帰国を強いられたのはもう10年近く前だ。その女性が帰国を強いられたときに一目僕に会わせてくださいと言って泣いたのがきっかけで、その会社の幹部と面識が出来た。いわば多くの若き友人を得た僕にとっても、多くの自由を与えられたかの国の女性達にとっても恩人だ。
 彼女はその後学生として来日し、アルバイトをしながら短大に通った。あるとき手持ちのお金が尽きて授業料も払えずこれまた帰国を余儀なくされたときに、僕が授業料と生活費を提供した。その恩をいまだ感じてくれている女性で、こうして時々会いに来てくれる。
 昨夜かの国の寮を訪ね、先輩としての話を色々していた。後輩達は異国で、それも牛窓で同朋の人と会えるのが嬉しかったみたいで、彼女を囲んで話は弾んでいた。ある瞬間急に僕のほうを皆が見始めたので僕の話題だろうなとは思ったが、案の定僕との思い出話をしたらしい。それは僕が貸したお金ではなく、我が家が彼女に送ってあげた布団の話だった。来日早々布団を買うお金もないことを知って、妻が関西にある大学の寮に送ってあげたものだと思う。僕は完全に忘れていたが、その女性が「オトウサン、今でも私使ってる、もったいなくて捨てること出来ない」と言ってくれたので思い出した。もう随分と古くなっているだろうが、僕の気持ちを大切にしてくれているのだ。僕はお金は返してもらわなくていいと思ってその時融通したのだが、程なくしっかり返って来た。あの国の人の金を借る敷居が低いことがよく分かったが、借りたものは返すと言う当たり前のこともしっかりしていて安心した。
 今では日本の大企業に就職して通訳として働いているが、言葉だけでなく日本人のようになってきた。9時間かけて会いに来る律儀さや、僕の体調をいたわる優しさは、かの国の素養だと思う。いくら通訳でも、心にはかの国を残しておいて欲しい。