勝負

 そう言えば歯科医が、神経を取っているからいつ歯が抜けるか分からないと言っていたような気がする。実際には抜けるというより欠けたイメージだが。ただ欠けた部分が多すぎて残っているのがわずかだ。元旦早々、あの堅いフランスパンを前歯で噛まなければよかったと思うが、早晩同じ運命を辿る歯だったのだろう。  それにしても前歯がなくなるなど想像しなかった。鏡で見るとなんとも恐ろしい顔をしている。ますます老け顔になりなんとも痛々しい。しかし、唇で歯がない事は隠すことができると思っていた。ところが翌日神戸にかの国の女性9人を連れて行くために邑久駅で待ち合わせをしたのだが、会うや否や、通訳の女性がこういった。「オトウサン、新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。オトウサン 歯がなくなったのですか?」かの国の人は身長が低いので僕の口を見上げるようになる。だから見えたのだろうと思ったが、それ以降、僕は笑うときに口を大きく開けずに、おちょぼ口で通すようになった。でも、数日経った今日など、以前と同じように大きな口をあけて笑っている。数日の時間経過の中で、恥ずかしさはなくなり、どうでもいいやくらいの居直りが出来るようになった。老いを隠してどうなると思い始めたのだ。考えてみれば、しみ1つなかった僕の顔に、最近になって初めてしみを見つけた。恐らくかの国の女性達を連れて太陽の下に出ることが増えたからだろう。しみも結構老いを感じるネタになる。また、随分と前から髪もうすくなった。着実に老化は進んでいる。  その一つ一つの老化現象は、招かれざる客ではあるが、避けることは絶対出来ない。だからそれらを初めて発見したときには、それなりの衝撃はあるが、結構認めるというか慣れるものだと最近では思っている。だからいたずらにショックを受ける必要はない。数日も経てば、歯がなかろうと、髪の毛がなかろうと、しみが出来ようと慣れるものだ。結局この慣れによって人間は救われているのだ。これは癌になった患者さんと同じ過程を辿る。癌を発病した人は最初は決まって「何故この僕が」と受け入れを拒むそうだ。そのうち不思議なもので、受け入れられるようになり、又立ち向かって行こうとするのだそうだ。  ただ老いに立ち向かう必要はない。特に見かけの老いに対しては。筋骨が衰えて立ち居振る舞いに支障が出るのは辛いから、筋トレやウォーキングに励むのは必要かもしれないが。  子供なら蛇でもかわいいが、老いれば犬でも醜い。それが自然だ。残るは、ほとばしり出る内面の美しさだが、これをもっとも苦手としている。勝負あった。