ヒッピー

 先輩が、岡山と愛媛県のライブの間の日に、牛窓でライブが出来ないかと電話してきたときに、僕は最近フォークソングを聴いても感動しないと答えた。するとあれだけその中に浸かっているだろう先輩から「俺も同じだ」と意外な答えが帰ってきた。20歳前後の頃にあれだけ熱中したのに、それ以後の唄で僕を虜にしたり感動させてくれる唄には巡り合えなかった。特に素人のコンサートは聞いていてつらいものがある。何も伝わってこないのだ。だから懸命に歌う人達に心からの拍手も送れない。当然足は遠のき1年に1回の鍼の先生が出演する新見のコンサートを義理チョコにしているだけだ。  だから僕は冗談に「〇〇さん、牛窓で歌って僕を感動させて!」と頼んだ。ところが牛窓のライブハウスでのコンサートを断られたから、聴く機会は無いと思っていたが、それとそんなに期待していないからどうでもよかったのだが、酔いに任せて息子が先輩に歌ってと催促したばっかりに、我が家のリビングでミニコンサートが行われることになった。最初は一曲のはずだったのだが、歌い終わると先輩がすぐに「もう一曲いい?」と次々と歌った。結局1時間くらい歌い続けたと思う。酔いが回っていたからしばしば歌詞につまり、声も出ていなかったが、なぜか僕は聞き入った。昔僕らが歌っていたものもあったが、最近のオリジナルも含まれていた。そしてオリジナルの歌詞は、僕が日常ブログで表現していることにとても近く、嘗て一心同体のような生活を送っていた理由が分かるような気がした。そして僕が気がついたのは、いい歌は、広がりを持っているってことだ。ひとつのフレーズを聴くとそこから一杯の連想が始まる。だからあれだけ短い詩でも人を感動させることが出来るのだと思った。僕はこうしてたくさんの言葉を使わないと気持ちを伝えることは出来ないが、唄はある言葉に吸い寄せられるように多くの言葉達が集まってくるのだ。だから僕たちは嘗て耳をすまして聴いていた。今はなんら思考回路を働かせることなく唄が終わってしまう。何も訴えてこないし迫っても来ない。ただの発射された言葉の残骸でしかない。  浮浪者かヒッピーか分かりづらい先輩は日本のヒッピーの草分けみたいな人と知り合っていたらしいが、そしてその方は亡くなったらしいが、価値観を共有していたのだろう。僕みたいな堅気の人間には分からないから先輩に「ヒッピーって何なの?」と尋ねてみた。すると先輩は「権力にあがらう人」と言っていた。すると僕は答えた。「それなら僕なんか生粋のヒッピーじゃ。超ヒッピーじゃあ!