適当

 「えらい適当やね」は笑顔で言ってくれたから、いやみではなく本心なんだろう。そう言われて反論する気概もない僕は「僕はすごい適当ですよ」と臆面もなく答える。  都会から牛窓に越して来たその女性から受ける印象は、知性?自然?芸術?ヒッピー?職人?・・・他人のバックグラウンドにほとんど興味を示さない僕だから、数回来てくれたのにほとんど何も知らない。ただ、漢方薬の処方を指名で来るヤマト薬局にとってはかなり珍しい人だから、その印象だけが突出している。それも、嘗て漢方の専門家に教えを乞うていたらしくて、かなりの知識だ。  何の話からそうなったのか忘れたが、僕自身がガチガチの漢方屋ではないこと、何が何でも漢方薬で他人や自分の病気を治すということがないこと、養生をほとんどしないことなどを話した時に思わず出た言葉が冒頭の言葉だ。僕は幸運にも田舎で薬局をやっているせいで、有り余るほどの資産を築けないこと、さばけないほどの患者さんが来ることなどありえないこと、競わなければならないほどの競合店がないこと、実力以上に振舞う必要が無いことなどで自然体で仕事が出来る。  「ききゃあよかろうが(効けばいいでしょう)」と言うフレーズを患者さんによく使うが、それはどんなものを用いても効けばいい、効かなければならないという意味で、サロンパスでもリポビタンでも適しているときにはそれを勧め、僕の都合(経済やプライド)を押し付けないことをモットーにしている。文献や洗練された講演で人の病気が治るならそれは簡単でいいが、なかなかそんなにたやすいものではない。僕はこれまた幸運にも全く裏表がなく、常にどんなひな壇に上がっても普段着の先生から漢方の知識を頂いたから、そして本当によく効く処方を教えていただいたから、患者さんに対する姿勢まで真似ることが出来た。  その神秘的な女性から漢方薬の講義をしてくださいと頼まれたが、僕が人様に教えることなど出来ないのだ。僕の先生が偉大すぎて、そこは真似てはいけないと思っている。いつまでも教えを請う立ち位置こそが僕の居場所だ。「えらい適当」でないと、僕は息が詰まる。