田植え

 「いつもお世話になっております。明日は雨が降らなければ田植えをする予定です。うちの地域も若者が少なくなったので、とうとう今年田植えをするのは我が家とあと1軒だけになってしまったようです。夏、一面緑の田んぼや、秋の金色の田んぼが見れなくなると思うと寂しいです…。」  こんなメールをある若い女性から頂いた。去年、お家の周りを写した写真がメールで送られてきたことがある。だから、今回のメールで、僕にははっきりと明日の光景が目に浮かぶ。僕は小学校に上がるまで母の里に預けられ、正に戦後間もない頃の日本の農家で育ったことになるから、農家のことはほとんど分かる。牛も鶏も犬も猫もいたから、正に田舎の原風景の中で育ったことになる。唯一なかったのは、叔父(母の兄)の姿だ。本来なら、叔母と一緒に可愛いがってくれたはずなのに、日本の軍隊に殺された。南方に行かされ殺された。都会の金持ちが儲けようとした戦争で百姓の跡継ぎが殺された。どうしてこの家には僕の家のようにお父さんがいないのか幼心にも引っかかったが、いとこの底抜けの明るさに救われた。  治水にも、生物の生命を育むのにも、勿論人間の命を保証するのにも欠かせない農業が、国の馬鹿政治屋どもに軽んじられ、彼女の言うように、寂しい光景に追い詰められている。土と共に生きることが合っている人達はいっぱいいるはずなのに、その人達には土地がない。食っていけない農業は、工場労働者を作り出すにはうってつけの供給源になる。車や船や工業製品が外国に売れるなら、日本の農業などどうでもいいのだ。資本家の手先の政治屋が、日本の農業を潰す。  幼い時には目の前にいつもある山の緑も海の青も、まるでないのと同じくらい存在感がなかった。だけどこの歳になると 山の緑や海の青に感謝するようになる。まだ残念ながら、手を合わせるほど歳はとってはいないが、感謝の気持ちは芽生えてきた。彼女の家族がするだろう田植えの光景にも感謝できる自分がいる。