気配り

 姫路城は改修も大詰めだが、まだ本丸は城内を開放していない。呼び名は分からないがその隣の建物は入場料を取って解放していた。靴を脱いで決められた順路に従って見物するのだが、廊下が狭いために人の列が続きなかなか進まなかった。特に階段部分はとても急で狭いからそこで渋滞が起きてしまう。ただ用心して上らないと靴下では滑ってしまいそうで怖かった。老人には適さないかもしれない。 偶然だが、僕らの前になり後ろになってほぼ同じように見学した数人の外国人のおじさんグループがあった。白人は皮膚が汚く老けて見えるから実際は分からないが、僕よりは少し年上の人のように見えた。建物に入ってから出るまで話をすることはなかったが、見学が終わって建物から出て、ある門のところで例によってポーズをとりながら写真を互いに撮り合っていると、そのおじさんグループが近寄ってきて、一緒に写真を撮ってくれと言った。と書くと嘘になる。正しくは身振り手振りでその旨を伝えてきた。もとより被写体になることには慣れすぎているかの国の子達は喜んで一緒に写真に納まっていた。するとおじさん達はフランス人だと名乗り丁寧に例を言ってくれた。「アリガトウゴザイマシタ」  結局、フランスのおじさん達は、日本人の若い女の子と一緒に写真に収まりたかったのだ。旅の記念にしたかったのだろう。ただ彼らは、結局はかの国の女性を日本人と間違ったのだ。それではどこを間違ったのだろう。帰ってから息子に話すと「ヨーロッパの人間にとってはアジア人はどこも同じに見えるんだろう」とそっけなかったが、僕は違う見解だ。もう何年も彼女たちと一緒に行動していると、彼女たちのほうがかつての日本女性に近いという印象を持っている。もっとも、かつての日本女性のほうが現代の日本女性より優れているというようなことは思ってもいない。懐古趣味は嫌いだ。アホノ何やらほど時代錯誤ではない。混雑した見学コースの途中で彼女たちが見せる陽気さと謙虚、礼儀正しさなどを好ましく感じたのだろう。そのどれも外国で暮らすには必要な手段だが、彼女たちは意図的ではない。そもそもどんなことがあっても3年間耐え抜くという決意が感じられる。そうした人間が放つ一種の美しさを日本女性の美しさと感じたのだろう。「ニホンジンジャ ナーイ」と言おうとしたけれど言わなかったと、通訳としてきている女性はお茶目に笑った。そうした気配りもまたかつての日本女性なら自然に出来たのかもしれない。  フランス人たちが勘違いしたその顔をまじまじと見てみると・・・かの国評論家の僕でも間違えそうだ。