秀明太鼓

カーナビを頼りに、指定された場所に着くと、係りの人が待っていて、数日前に確保してくれたと言うスペースに案内してくれた。おそらく1000人では収まらない観客の中の僅か8人のために、まさにピンポイントで駐車場を確保してくれていたのだ。日曜日の手柄山界隈は、いろいろな施設が集中していて、とてもイベントを開催して駐車場が確保できるとは思えないらしい。そのために県外から聴きに行くという僕たちのために、わざわざ数台だけが置ける駐車場を確保してくれたらしい。  チケットも間に合わなかったので、受付に言っておきますと連絡をくれていた。まさにその通りで、受付に行くと8人分のチケットが輪ゴムでとめて用意されていた。そして受け付けはもとより、会場の中も若者たちが本当に気を配りながら、訪れた観客を上手く誘導していた。インターネットで偶然見つけた和太鼓のコンサートだったが、1ヶ月前に手配をお願いしてから、コンサートが終わって姫路の街を出るまで心地の良い経験をさせてもらった。  ユーチューブでもしばしば和太鼓の演奏を聴くが、ある時、ふと耳にした秀明太鼓が上手なのに、あまりアップされていなかったのだ。この程度の実力だったら、ユーチューブにたくさんアップされていてもいいのにと不思議だった。そして何とか聴く機会はないかと探していたら、偶然今日姫路でコンサートが開かれることを知った。運のいいことに無料だから、かの国の女性たちを車に乗せれるだけ乗せて連れて行ける。午前中姫路城を見学して、午後は和太鼓と、まさに日本の文化を堪能してもらえる日になると思った。案の定どちらも楽しんでもらったが、僕の影響で、和太鼓が好きになってしばしば付いてくるかの国の女性も増え、なかなか耳も肥えてきて「オトウサン キョウノタイコキレイ」などと比較まで出来始めた。  秀明太鼓は実験中ではないかと思った。あるいは結果は出ているのかもしれないが、初めて聴いた僕は挑戦中という受け取り方をした。パンフレットに「太鼓のオーケストラを目指す」と書かれていたからではない。拍子?リズム?の展開についていけないのだ。4分の4拍子か3拍子しか分からない僕は、色々な拍子に展開されることに付いていくことが難しかった。耳慣れているのは上記の二つだから、それから外れるとリズムがとりにくくなる。さっきまで4拍子だったのが気が付かない間に3拍子になり、時に2拍子になったりと、展開が速すぎてついていけなかった。打ち手の実力は相当のもので、古典的な曲で収めていれば容易に聴衆の感動を安定して取れるだろうが、恐らくそれに甘んじることを由としていないのだろう。僕は宗教団体が、そうした革新を試みることがぴんと来なかったが、むしろ新興宗教が生まれること自体がそもそも革新的なことなのだろう。  それにしても僕が和太鼓に惹かれるのは、演者が全力投球だからだろう。毎日目にする素人芸人や、胡散臭い政治家や学者などの、吐き気がするほどの低俗性に辟易している心を浄化させてもらえるからだ。絶え間ない精進と礼儀正しさが見るものすべてに伝わってくる。嘘がないというより嘘などではあの音が出ないことは明らかだ。最初から最後まで微塵も宗教色を出さなかった自信に感謝。