完成度

かつて僕もその中の一人だったから言う権利はないが、今日、ふと理由がわかったので書いてみたいと思う。 僕もそうだが、おそらく今も昔も素人の音楽など聞くに堪えれないものだと思う。今思えば僕は加害者だったようにも思う。よくもあんなつたない歌を聴いていてくれたもんだと思う。穴があったら入りたいくらだ。 僕にはいまだ歌っている友人が何人かいるが、歌自体に興味を持って聴きにいくことはない。歌にというより友人に会いに行っているようなものだ。そこで何か琴線に触れるような歌との出会いがあればもうけものだが、そんなことはもう何十年とない。いやプロの歌でも今は感動しないのではないかと冷めた見方をしている。だから僕はフォークソングを今、コンサートにまで行って聴こうとは思わない。そこには行にも似た訓練や練習を経たという迫力が感じられないのだ。 こうした僕の心境の変化は和太鼓に負うところが多い。ふとしたきっかけで好きになり追っかけを今だやっていて、多くのグループの演奏を聴いたが、どのグループもほとんどプロ並だ。プロと素人の差がこんなにないものは他にないくらいだ。僕が今日ひらめいた言葉は「完成度が違う」ってものだった。 和太鼓奏者の人間業とは思えない演奏は、その影に隠れた並外れた努力だと思う。あの筋肉を見ればわかる。そしてあの演奏を聴けばわかる。素人もプロもあまり違わないくらい練習をしているのだと思う。だから遜色ないのだ。あれだったらプロが目の前に陣取って聴いていても、気後れすることなく演奏できるのではないかと思う。要は完成度が違うのだ。 何歳になっても不完全を地で行っている僕が、芸術に完成度を求めるのはおこがましいが、完成された人たちの演奏に行くたびに、この貧相な耳でも肥えてくる。