過去

 あまちゃんを1回も逃さず見続けてしまったことを教訓に、その後の朝の連続テレビ小説を見ることは止めた。思惑通り、朝の時間に余裕が出た。何をしていても連続ドラマを見るために中断されないのだ。それで何か成果が出せるわけではないが、余裕があることだけは確かだ。  と言うわけで今日のテーマは、僕が今の連続テレビ小説をかじりついて見ているためではないと言うことを理解してもらえればいい。ほんの偶然その場面の時にテレビの前にいたことによる。  今日はヒロインの卒業式らしく、外人の校長が卒業生に訓辞を述べていた。その内容で特に共感できた部分があったので取り上げた。白人の校長が、将来この学舎で過ごした数年間が、人生でもっとも輝いて楽しかったなんて言わないでくれと訓示していた。僕は全くの共感を持ってその下りを聞いていた。  僕の大学生時代は、自身でも混乱の時代だったと思う。若者特有の正義感と受験の燃え尽き症候群と将来に対する無設計と、とにかく生産的なものとは隔離されて暮らしたようなものだ。だからといって真面目に暮らした高校時代までを評価し思い浮かべたりすることは全くなかった。いや現在でも驚くほど過去を振り返り感傷に浸ることはない。とにかく僕にとっては、牛窓に帰ってからは目の前にいる人のお役に如何に立てるかどうかだけが関心事だったし、これからもそうだ。別に職業的な範疇だけではない。今では日常生活で巡り会う人達の不都合を微力ながら取り除く手伝いをすることが日々を確かに生きる唯一のモチベーションだ。だから僕には「あの頃は良かった」はない。写真を撮らないのも同じ理由かもしれない。まず、写真を見ないことは確かだし、見て懐かしむなんてのも自分ではあり得ない。明日の写真があるのなら見るかも知れないが、過去はもういい。今現在も作られ続けている過去を追い求めるほど暇でもない。  僕が現役でいる間、いや引退してからでも、ひょっとしたら目の前のテーマを探しながら、その日その日を精一杯生きているかもしれない。どんな非力な人間の回りにも、マッチ一本で照らせる闇はある。