数珠

 何となくスーツの袖の奧に数珠が見えた。薬の会社のセールスの人は基本的には真面目な人が多いから、違和感はなかったが、どうして数珠をしているのか尋ねてみたかった。恐らく僕より一回りは若い人だから、何かの理由があるのではないかと思ったのだ。深く入りすぎても失礼なので「信心深いたちなの?」と言う切り口で質問をした。 決して自分で信心深いとは言わなかったが、20年近くはずせないでいるのだから、結構その素質はあるのかもしれない。なんでも親類の人が数珠を作っているらしく、頂いたものらしい。その話から出てきたことなのだが、面白い体験を彼が教えてくれた。もっとも20年前のことだから面白いなどと言えるのだが、恐らくその時は必死の思いだったに違いない。  学生の時お兄さんが、ヤッケかユッケかしらないが、持って帰ってくれたらしい。彼は一口、残りは全部お兄さんが食べたのだが、一口食べた彼の方があたって2日間入院し吐き下しで苦しんだそうだ。残り全部を食べたお兄さんは、食べた後激しく吐いて結局は何も起こらなかったそうだ。一口食べただけの方が点滴治療を受けたらしいから不運だ。当時のことだから、「古かったんやろう」ですんだらしいから、それこそ古き良き時代だ。僕はユッケやらを食べたことがないから、そしてテレビなどで皆さんが生食禁止を惜しがっていたからどのくらい美味しいのだろうと興味を持って彼に尋ねたら「所詮タレの味でしょ!」といたってシンプルな答えが返ってきた。一口食べただけで後は食べなかったのだからたいして美味しくもなかったのかと想像するが、でもあれだけ一部の人の間では惜しがっているのだから、日通の人、いや食通の人にとっては残念なのだろう。  その時に帰らぬ人になっていたかもしれないねと言うと笑っていたが、どうやらその時の体験から数珠を魔除け代わりに持ち始めたのだろうか。何か見えない大きな力にすがらなくては心細い生きにくい時代だ。数珠一つで心が安泰なら僕は10個くらいもっておきたい。