不完全

 教会で御聖体(パン、キリストの身体)を頂くときに、僕の前に長身の青年?がいる。卒業してから僕は社会にやったくらいの感覚でいたのだが、いざこうして前後して列に並んでみるとさすがにいいものだ。10年ではきかない年月この様な関係になったことはない。冠婚葬祭以外に会うとしたら、僕が患者になっているときだけだった。胃カメラをするときにもマニュアル通りに淡々と誘導し、診断結果を告げるときも親に対する配慮はなかった。勿論スタッフの手前それでいいのだが、僕の前ではいつも職業人だった。  「教会に来ているの?」と尋ねると、「全然」と笑っていた。「お父さんはどうして○○教会に行かないの?」と逆に聞かれたので「もめた」と答えた。何をもめたか聞かれたので「価値観を否定された」とだけミサの途中に話した。当然僕は笑いながら答えたのだが、彼も笑っていた。短い会話だが何となく、親子をしていたあの不完全な懐かしい頃に戻ったような気がした。いや、ますますお互い不完全なのを確認して喜んだのかもしれない。何故息子が久し振りに教会に来たのか尋ねないし、息子もどんな価値観を否定されたのかは聞かなかった。信心深くない2人がよりによって教会で会うのだから、何となくどちらも幸せ一杯ではない。  僕でさえ、こうした当たり前の会い方が久し振りなのだから、伯父達にとってはもっと久し振りだ。その中の一人が、それこそ涙を流して喜んでくれた。あの涙を見て、色々な人のおかげで生きていることを少しは感じてくれればと思った。何はともあれ何年も見たことがなかった明るい表情にほっとしたが、巷でよく言われる「親はいつまでたっても親」を実感させられた1日だった。