死火山

 遠くから笑顔で挨拶をしてくれるのは例の歌手だ。3月8日のブログ「生け花」に登場する歌手だ。僕の居眠りを白状した文章が勝手に没にされたときの重要な登場人物だ。3日前にも挨拶をしたのだがどうやらその時は僕の文章をまだ読んでいないらしくてそれこそ短い挨拶だけだった。ところが昨日はちゃんと彼女は僕の文章を読んでいてくれていたからその話になった。だが実際には予想通り彼女は全く意に介していなくて、ほとんどその話題は素通りになった。それよりも岡山教会で外国人のミサの時と日曜学校の子供の前でギターを弾いてくれるように頼まれた。勿論それは丁重にお断りしたが、どうしてこんなに良い人間関係に土足で踏み込むようなことをしてくれたのだと今更ながら残念に思う。もう少し深く読んで貰えれば彼女が僕を評価してくれている以上に、僕が評価していることが分かってもらえるのに。その後あの文章は多くの外部の人の目に触れたが、その処遇に疑問を投げかけてくれる人ばかりだった。 傍に息子がいたので彼女を紹介したのだが、「歌手の○○さん」と言ってしまった。彼女は、そんなんじゃありませんと照れながら否定したが、彼女は褒められて嬉しいタイプではない。下手に褒められると、裏を考えたり、下心を想像したりして単純には喜ばないタイプだ。勿論笑顔は作るが心から受け入れての笑顔ではない。幾分かの不快感を内包している笑顔だ。彼女がそんなタイプかどうかは1秒も顔を見れば分かる。だから僕は賞賛の文章は書きたくなかった。どうせ目に触れるのだから彼女を讃美する直接的な表現は意地でも使いたくなかった。それが彼女に対する僕の気配りだったのだ。  横浜の女性に「先生噴火していますね」と電話でとても面白く表現されたが、今はどちらかというとほとんど死火山状態だ。火の粉が実際に僕に降りかかってきたから今度のような行動をとったが、本当は今回のことは単なる僕の習性のなせる技だったのだ。30年以上薬局で色々な健康相談を受け、一人一人に解決の処方を考え続けてきたことと全く同じパターンなのだ。体調と教会内の問題の違いだけで、僕は相談されたら反射的に解決しようと身体が動くのだ。相談者が片手では収まらなくなったから行動に移しただけなのだ。 今度のことで僕は何も失ってはいない。寧ろ気づいたことがいっぱいあった。見よう見まねから仮免みたいな感じで教会に通ったが、見よう見まねで勝手に決めつけていた姿は実際にはなかった。でもそれはそれでおそらくいいのだ。目の前にいる人の問題解決を延々と試行錯誤の連続でくり返している人間にとっては、正解にたどり着く困難さは日々味わわされている。立ちふさがる人間の壁に挑むほど僕にはスタントの運転技術はない。