居心地

 もうこうして書くことさえ空しさを感じてしまうが、僕の薬を飲んで頂いている人にあくまでどんな人間が作っているのか知っていて欲しいからやはり書かなければならない。たわいない日常の連続にこそ本当の人生は刻まれるのだから。 僕が今時々ながら教会に足を運ぶのは自分のためではない。かの国の若い女性二人が凄く喜ぶからだ。2年間異国で単純作業に従事する日々を信仰と言うもので慰められるなら協力しない手はない。それどころか道中、純朴な笑みに心が癒されるのは他の何物にも代え難い。  ところが、問題の場所では何故か見たくないものを見てしまうのだ。意識して見ているのではない。寧ろ無関心を装っているのだが、自然に目に付いてしまう。以前ならそのことを口に出していたかもしれないが、口を挟まないように言われたから今は敢えて口にしない。口に出してもなにも改善されなかった空しさもあるが、むしろ足許を掬われたような後味の悪さしか残っていないから、この1年の間に保身の術だけ身につけた。 厳粛なミサの後、ある公園で花見会があった。30人くらいが出席してにぎやかだった。その中に入退院をくり返している男性がいた。彼が途中気分を悪くして横たわったらしい。偶然その時僕は公園の少し奥まったところを一人で探索していたのだが、かの国の若い女性達が呼びに来てくれた。男性が倒れているところに戻って介抱し始めたのだが、ほどなく介抱しているすぐ傍でフォークダンスを始めましょうと言って、にぎやかに踊りが始まった。さっきまで救急車を呼ばなければと思案していたらしいがこの豹変ぶりはなんとしたことか。それよりも、この倒れている人は生いたちから現在までとても恵まれているとは言えない。倒れたまま「飯が食いてえ~」とうめくくらいだから想像はつく。僕よりも一回り以上年下なのに、僕より一回りは上に見える。花見の円陣でも孤立していた。ある一人の女性が親しく話しかけてくれていたが、残念ながら他の人は近寄ってはくれなかった。たださすがに倒れたら何人かの優しい人が心配そうに声をかけてくれた。その中で若い夫婦が特別僕の心を打った。その日の全ての見なければよかった光景を払いのけてくれるくらい印象がよかった。倒れた男性を心から心配していたし、吐瀉物の処理も反射的に何のためらいもなくやっていた。そしてその男性が起きあがる30分くらいの間ずっと傍にいてくれた。以前から感じていたその夫婦の、自然な優しさを兼ね備えているだろう幸運を垣間見た。  丁度去年の今頃成り行きである唄をみんなの前で歌った。「・・・労務者とは云え 人ひとり死ぬ 誰も歌わぬ 悲しみの歌 誰も看取らぬ その亡骸  労務者とは云え 人ひとり死ぬ・・・」僕はその時確信を持って歌ったのだ。この唄の視点が圧倒的に欠けていると本当は言いたかったのだ。都合のよい高尚な言葉を乱用して、結局は意に添わない多くの人を教会から離れさせてしまう危険を僕は感じていた。でも誰も僕の意図など気にも留めなかった。でもそれは当たり前だろう、どうやら善を学ぶところであっても、善を実践するところではないのだから。  幼いとき、鉄工所をやっていた祖父をしたって気の荒い漁師達がいつも来ていた。目の前には魚市場があって、朝な夕なに漁船が魚を運んできていた。多くの子供達がそんな環境の中で育った。善を学んだ人などいるよしもないが、善は行われていたと思う。現在では薬局で日々お会いする体調不良の人達の方が、畏れ多い人達よりさりげない善の実行者のような気がする。誰の威光を借りるわけではなく、懸命に生きている人達の息吹こそが僕には尊いように思えて仕方ない。  こんなことしか考えられない僕は、もうその世界でも充分落ちこぼれているのかもしれない。やはり誰にもいい顔が出来ない不器用さで、ついぞ居心地のよい空間はこの薬局以外には作れなかった。