明らかに変わった。嘗てなら盆の間は帰省客や、海水浴客、観光客などの体調の急変や軽い怪我などで忙しいのだが、今日は体を休める1日になった。ついつい油断して煎じ薬の待ち時間に利用して頂くパナソニックの電機マッサージ機に身体を委ねて熟睡していた。とは言っても、過敏性腸症候群漢方薬が丁度今日切れた人が4人いたのでその薬を発送し、遠くから数人漢方薬を取りに来てくれたからそのお相手をし、勿論帰省客や観光客のお相手も少しだけした。娘夫婦は、岡大のちょっと難しい患者さんの薬を作ってくれて早々と帰っていった。ストッカーのモーター音と遠慮気味にかかっているBGMの音だけと今は同居している。日はまだ結構高いが、いつシャッターを閉めてやろうかと不謹慎なことを考えている。  こうした手持ちぶさたな時間は嘗てはいっぱいあったのだが、今は貴重というか、いやいやもったいない非生産的な無駄な時間になってしまった。一つの文章をしたためて郵便で送れば数日後に返事がもらえる時代が、数分後には返事かくる時代になったのだから、人は同じ体力同じ知力でどれだけのことをこなさなければならなくなったのだろう。そしてそのあげくの果実は一体何なのだろう。心も身体も会社に供出してその代価として得た金で、一体何を買い求めるのだろう。豊になったのは何なのだろう。海外に旅行に出かけることか、美味しいものを食べることか、着もしない服を集めることか、エコと言われる車や家電を揃えることか。そのほとんどと縁遠い僕は何も豊にはなってこなかったのか。懸命に働いて何が豊になったのだろう。お金で買えるもので満足を得た経験が少ないから、元々物差しのない生活だ。僕にとって物差しで測れるもので豊は証明されなかった。哀しみに打ちひしがれている人の、孤独に苦しんでいる人の、大切にされないで自信を失っている人の不意に漏らした笑顔以上に嬉しいものはない。あの笑顔を何かで測れれば僕の豊かさも具現化できるのに。  この年齢になると、自分で何かをして何かで報われたいなどと言うことはほとんどなくなった。枯渇寸前の能力体力では当然だろう。だけど上記の苦しみの中にある人達をチョットだけ幸せに出来たら、嬉しくて嬉しくてたまらない。僕にとって豊とはその喜びくらいなものなのだ。数分で返事が返ってくる時代が、数日で返事が返ってきていた時代より豊上手とは思えない。