高尚

 よその町から一人でやって来たその女性は名前を名乗ってから用件を言った。その女性は初めてお会いするがご主人はもう数年漢方薬を取りに必ず月に2度は来る方だ。自分が不調になったからご主人と同じように漢方薬を作って欲しいとのことだった。 問診を始めてすぐに本人の口から「これはストレスが原因だと思います」と確信を持って言われた。僕としては相談の不快症状がストレスとは無関係だと分かるのだが、本人は数回同じ言葉を繰り返した。「ストレスが原因ではないと思いますよ」とこちらは1回目に否定しているのだが、決めつけが激しいのか、どうしてもストレスに原因を持っていきたかったのか、ひつこく繰り返した。あげくの果ては「先生も分かるでしょう、何年も主人は通ってきているのですから」と主人がストレスの原因であることを暗にほのめかしてきた。とぼけて聞こえない振りをしていると「主人のせいなんですわ、先生も気がついておられるでしょうが神経質なんです。細かいことに気がついていちいちうるさいんです。一緒にいるだけでイライラしてくるんです」とついに本音を出した。確かにご主人には神経質な方特有の痙攣性便秘の漢方薬を作っている。毎回症状を細かく教えてくれて微調節を余儀なくされているから神経質なのは言われるまでもなく良く分かっているが、夫婦仲が悪いのはこちらには関係ない。いつもの「絞め殺してしまえ」を出す気力もなかった。やはり数年間通ってきてくれている主人の肩を持ってしまったのだろうか。 単なる幻想だったのだろうか、高齢になると男女とも次第に寛容になっていくのかと思っていたら、意外とそうでもない。最近僕の薬局にはウツ傾向の方が紹介されて沢山来るが、高齢の方の夫婦関係が原因のウツ症状が多いことに驚かされる。いや今では驚くこともなくなって一番にそれを疑うようにまでなっている。嘗てより20歳くらいは若いと老人が言われるようになったから、気持ちも若くて主張ばかりが激しいのかもしれないし、伴侶などいなくても社会が十分その機能を果たしてくれているから、夫婦である便利さより煩わしさの方が優ってきたのだろうか。良識ぶって生きにくい世の中になったなどとは全く思わない。寧ろ無意味な関係から解放されて自由になるのに年齢はない。そちらがより良い状態ならそれもいいし、口に出すだけで少しはうっぷんが晴れるなら、言ってみるだけでもいい。良識で返事をしないことが分かっているから皆さん喜楽に僕に言えるのかもしれないが、政治家や学者や役人の良識でこの国が世界を滅ぼしかけたのだから、そんなものまっぴらだ。 漁師と百姓に囲まれて育ったのだから僕の脳みそなんて第一次産業だし、価値観、立ち居振る舞いみな第一次産業だ。それでも魚の臭いも、肥やしの臭いも良識派の胡散臭さよりははるかに高尚だ。