一滴

 その一言が出る人に脱帽。考えて出した言葉ではなく、何気なく出た言葉にその人の本質が現れている。そうした清流の一滴のような言葉に巡り会える幸運を実感する。 ある方に頼まれた景品は羽毛布団だから箱に入れられているにしても結構場所をとる。エスエス製薬から送られて来た日に、すぐに電話で荷物が届いたことをその女性に知らせた。羽毛布団は冬にしか使わないのだから取り寄せは急がなくてもよいと言われていた。その言葉が耳に残っているからいつまでこの大きな荷物を保管しておかなければならないのだろうと少し負担に感じていた。事務室も次第に器機が増えて窮屈になっているので、その布団のためにとられるスペースは結構ストレスだった。ところが荷物が届いたという電話をして10分もするとその依頼主の女性がやってきた。そしてその女性の開口一番が「あんなに大きい荷物は邪魔になると思って」だった。秋までとは言わないが、いつ取りに来るかは彼女の自由だ。ところが薬局のことを思いやってあっという間にやってきてくれた。その相手を思いやる想像力は僕にはなくて、心の中でつぶやかずにはおれなかった「完敗」と。  車中、何十回と同じ言葉の質問攻めにあった。母を里に連れて行ったのだが「昼ご飯はどうするの?」と言うのが唯一の気がかりなのだろうか、手を替え品を替えての同じ内容の質問が繰り返された。平日、昼食が不規則になっているのをかなり気にしてくれていて、毎日のように食べたかどうか妻に悟られないように確かめる。僕が決まって昼食をとっていれば安心で、夕方近くまで時にとれない時など気が気ではないらしい。僕にとっては段取り優先にしているだけのことなのだが、母親としては食事さえ摂っていれば健康でおれると思うのだろうかこだわりは激しい。少し、いや段々と痴呆の足音が大きくなっている母を僕の従姉妹はとても親切に扱ってくれる。家族以上の愛情を注いでくれる。母を昼過ぎに迎えに行ったとき、美味しそうなお好み焼きを振る舞っていてくれて、お土産にケーキを焼いてくれていた。そして帰り際に「また、連れてきてあげてね」の感動の一言を聞かせてくれた。恐らく数時間同じ内容の話をテープレコーダーの巻き戻しのように聞かされたであろうに、あのような言葉を贈ってくれた。里へ行きたがるのは郷愁だけではなくこの様に大切にしてもらえるからだろう。  大きな事は出来ないけれど日常のちょっとしたことに対する誠実さで庶民は許してもらおう。沢山の人を沢山の知恵で救えないし、沢山の人を沢山の経済でも救えない。沢山の人を沢山の時間で救えないし、沢山の人を沢山の人脈でも救えない。ないないづくしだが飾らない日常があれば、ささやかな善意は実現できる。