悪代官

 昨日は休日だったが、家を一歩も出なかった。夕方ふとつけたテレビで水戸黄門をやっていた。東野英治朗がやっている水戸黄門だから恐らく僕が学生時代のものではないだろうか。彼の印象が強すぎて、以後誰がやっても今一に見える。可愛い娘役をやっている女優に見覚えがあったから、誰だろうとしばし考えたあげく、嘗て風邪薬のジキニンの宣伝に起用されていた女優だと分かった。今でも時々テレビで見るが、あの子があの人になっているのだから、この子がこれになっているのも仕方ないと、変なところで印籠を、いや引導を渡された。  飽き性の僕が一番続けることが出来たのはバレーボールだと思っていたが、よく考えてみれば一番長いのは水戸黄門だ。大学生の頃からアパートで米を(おかずがなかったからご飯とは言えない)食べながらよく見ていた。牛窓に帰っても何故か水戸黄門だけは見ている。年寄り相手の番組だと世間では思われているかも知れないが、何故か青春期から好きだった。印籠を見せて一件落着が権威主義だと揶揄されるが、僕は権力者の悪を暴くところが好きだ。出来れば平民の力によって解決すれば、先のように揶揄されることもないだろうが、どちらにしろ悪が滅びるのは痛快だ。当時(僕の青春時代)も今も、悪は形を変え常にはびこり、庶民は報われることのない日々を暮らしている。いや報われるどころか日々の生活すら壊れそうなぎりぎりの生活を強いられている。 エジプトで悪代官が追放された。権力を思うがままにしてきた奴が辞職なんかで許されるのかと思うが、水戸黄門はいないから「おって厳しき沙汰があるから覚悟しておけ」とはいかないのだろう。僕なら迷わず打ち首獄門だがさてどうなるのか。権力が集中して冨が一部の人間に独占される世の中よりは、ころころ変わる日本の方がましだ。どうせ役人の方が数段優れているのだから、そもそも必要のない職業のように政治家が見えてきた。冷静に考えれば、彼らが何かの役に立っているのだろうか。横やりを入れて懐を肥やすくらいしか脳がないのではないか。彼らがいなくても役人が何とかやってくれそうな気もする。  ころころ変わることが良くないと自分で言う馬鹿が今だしがみついている。揚げ足取りしか能がなかったことは国民の誰もが気づいているのに、この悪代「管」は虚ろな目で役人の原稿を棒読みしている。受け身になると途端に弱くなる奴の典型だ。