代償

 昼前に消えてなくなった久し振りの雪景色も、毎日北国の苦労を見せつけられていたら、喜ぶ気にもなれない。映像では屋根に上がっている人も、玄関先で作業している人も高齢者ばかりで、見るからに痛々しい。恐らくあの世代の人だったら、身体のどこかに一つくらい痛みを抱えているだろうし、力を入れるたびに息も切れるだろう。娘や息子を都市部に送り出し、陰で高度成長を支えた世代の代償は、取り残された孤独と、置き去りにされた孤立だ。  北の苦労と時を同じくして南にも苦難が襲っている。降るものの色が黒いだけで状況は同じだ。ここでも又、穏やかな言葉を話す高齢の人達の姿が胸を打つ。誰を責めるではなく、自然と共存して生きてきた人達の懐の深さに温暖な地に暮らす人間はたじろぐ。  そんな苦労の一つも知らない偉い人達が、誰に頼まれたのか又その人達を切り捨てようとしている。まるで税金泥棒のように報道されることはあっても、彼らが守ってきた田畑への、ひいては治水や環境への貢献なんかは誰も伝えようとはしないし、感謝もしない。荒れ果てた大地の逆襲を辛うじて防いでいる彼らに今退場を強いている。余り聞いたことのないオーストラリアの洪水は、北半球の予告編のような気がする。車一台を売るために、穏やかに話す地方の人達がどれだけの苦難を以後背負えばいいのか。  胡散臭いものばかりのるつぼの中で、ゆっくりとした北の国の言葉や南の国の言葉に心を洗われる。そろばんを弾かないやりとりの中にしか雪との共生はないのだろう。守らなければならないものを持っているからこその勇気が屋根から滑り落ち果てる。