なまこ

 山間部や都市部の人が知っているのかどうか分からないが、今日、無性になまこが食べたくなった。祖父が生きていたときは、なまこは海からとってきて祖父が料理してくれていたが、今はスーパーで買えるらしい。最近パックに入っている、勿論小さくすぐ食べれるように切っているものだが、なまこを売っていることを知って思いたったので通りすがりのスーパーに寄ってみた。 魚コーナーの棚を一通り見てみたがなかったので、以前妻が買ったという生協の共同購入でないと買えないのかと思って諦めかけていたら、魚屋さんらしき人が奧から偶然出てきた。尋ねると発泡スチロールの蒸籠(この言葉が正しいのか分からないが、木製から発泡スチロールに変わっても魚を入れる容器を昔から魚市場ではこのように呼んでいる)に入っているのを教えてくれた。氷水にパックごと沈めるように陳列されていた。やはり鮮度を要求されるのか、あるいは足が早いのかもしれない。そのスーパーから家まで30分はかかるので大丈夫かなと思ったが、窓ガラスを開けて冷たい空気を車の中に入れながら帰ってきた。そこまでして食べたかったなまこは、ちょっと少な目だったが298円だった。2つ買おうか迷ったが、結局は1つにした。何故なら僕はなまこがあれば、いくらでもご飯を食べてしまうのだ。恐らく2パックも買って帰ったらいつもの倍はご飯をお代わりしてしまうだろう。少しばかり理性が働いた。 久し振りに一人で車を運転して教会に行き、久し振りにフィリピンの人の伴奏をし、久し振りにホームセンターで事務用品を補充し、久し振りに孫に本を買い、久し振りに疲れを残さずに帰ってきた。こんなたわいもないことだが、体調を崩しているときにはそのどれもが困難なのだ。以前東京の過敏性腸症候群の女性の調子が良くなったとき「景色が違って見える」と電話で教えてくれたことがある。僕は勝手に電話の向こうに聞こえる騒音から、都心のオフィスビルの下を歩く彼女を想像したが、ビルの一つ一つ、横断歩道、渋滞する車、おしゃれなショウウインドウ、果ては信号機の色までが違って見えたのかもしれない。僕の通る道にはおしゃれなものはないが、人々が織りなす日常が輝いていた。 一昨日と昨日、2夜連続で無縁社会をテーマにした番組がNHKで放映された。あそこまでは深刻ではないかもしれないが、僕にも似たような言葉が投げかけられることがある。その言葉が理解できる原体験、それを受け止めてあげれる気力体力、そしてその苦痛を軽減してあげれる漢方力を要求される。たわいもない1日さえ送れないようでは期待に応えることは出来ないから、少しばかりの養生を心がけようと思っている。298円の贅沢で、298円の幸せが買えるのだから、景色が変わるくらいの幸せを顔も知らない多くの人達に味わってもらいたい。