蜘蛛

 蜘蛛まで馬鹿にしやがって。 蜘蛛の巣は当然獲物を捕るために張られるのだろうから、虫が多く通る場所に張らなければならない。その次に自分自身の安全も確保しなければならないから、天敵に見つかるところでもいけない。だから当然巨大な生き物である人間からも距離をおくはずである。ところが我が家に居座る蜘蛛は大胆不敵にも薬局の出入り口に毎晩巣を張る。何が情けないと言って、入り口に蜘蛛の巣を張られるほど情けないものはない。人が滅多にやってこないのを証明しているようなものだ。毎朝、手で新たに張られた巣を払いのけていたのだが、今日でいたちごっこはお終いとばかりに、ライターで燃やした。そのついでと言っては何だが、ガーデニングの鉢の下を覗いたりすると、気がつかないだけだったのか蜘蛛の巣が沢山はりめぐらされていた。今日僕は凶器を持っているので、それらもついでに焼き払ってしまおうと考えた。ある鉢に蜘蛛の卵が二つぶら下がっているのを見つけた。当然それにも火をつけてやろうとしたら、巣の方を先に焼いて、卵が落ちた。すると落ちた卵から何かがこぼれたように見えた。タイルの上をゆっくり広がっているように見えた。目を凝らしてみると、何とそれは蜘蛛の子達だった。割れた卵から懸命に逃げているように見えた。その数はどれくらいいたのだろう。ああ、これが蜘蛛の子を散らすと形容される所以かと、初めて見た光景がとても新鮮だった。ただ、おびただしい数の蜘蛛の子が四方に広がり始めたので、これをこのまま成虫にしてなるものかとライターに火をつけて近づけると、さすがに向こうは体長1mmあるかなしだからめっぽう火に弱くて、瞬く間にすべてが動かなくなった。  ふとしたきっかけで目撃した光景だが、長い間生きてきても知らないことばかりだ。実利的な成果ばかり求めて、知的な欲求を満たすことはずいぶんと怠った。結局は実利も知恵も手には入らなかったが、おかげで頭でっかちな性癖に偏ることなく、多くの人と穏やかな関係を築くことが出来た。嘗て蜘蛛の子を散らすように逃げまくっていた青年達も今頃は、ライター片手に鉢を1個ずつ覗いているのだろうか。置き去りにした青春に迫り来るライターの炎。