選択

 明日、小さな玉野教会にもクリスマスを祝う人達が大勢来られるので、何か楽しんでもらえるものはないかと思案していた。思案はすでに去年のクリスマスが終わったときから始めていたのだが、結局はなにも用意が出来なかった。玉野教会の歌って言うのを作って披露しようとこの1ヶ月くらいは思っていたのだが、結局は1小節の歌詞もメロディーも浮かばなかった。ただ、スピーチのネタだけはいくつか頭に浮かんだ。 いよいよクリスマスイブは明日になったのだが、今朝布団の中でまどろみながら、何故か先日自ら命を絶った加藤和彦の事を思った。僕と彼になにも接点はないのだが、僕ら世代の誰もが同じだが、高校生の頃数々の彼らのヒットソングを聴いていた。その後の彼の音楽について興味もないから分からないのだが、報道によって彼があの年齢になっても、音楽で食っていたことを知った。それもその道で惜しまれるほどの活躍をしていたことも知った。  多くのと言うべきか、ほとんどと言っていいのか、いやひょっとしたら全てと言っても過言ではないと思うのだが、若いときにいくら沢山のヒット曲を作った人でも、ある年齢が来たらさっぱり作れなくなっている。仮に作っても聴くに堪えないものばかりだ。多くの有名なシンガーソングライターも、ほとんど若いときの作品で食っているだけだ。才能に恵まれた人でも、創作する力は極端に落ちるのではないか。特にメロディーに関しては余計その傾向が強いのではないかと思う。多くを見たり聞いたりしているうちに感動する閾値が高くなってしまったのか、経済的な安定で訴えるべきものがなくなったのか、はたまた他の理由でか分からないが、作品として通用するものは誰も作れていない。  加藤和彦がどの様な内容の遺書を残したのか分からないが、僕は自分のあまりにもなにも浮かばなさに我ながら呆れてしまった現実と重ねてしまったのだ。素人と大御所とを比べるのは失礼だが、素人なら自嘲ですませられるが、プロは、なおかつ実績のある人は創造力の無さに耐えられないのではないか。  まどろみの中だから、こんな空想も許してもらえるだろうが、期待され続け、それに応えなければならない専門家はそれなりに辛いんだと、自分の無能ぶりに救われたりする。他人の視線に酔い、他人の視線に追いつめられ、他人から唯一死線で逃れた。才能故の選択のように思えた。