玉野競輪

 今度の日曜日に、玉野カトリック教会でフォークコンサートがあるのだが、一昨日その打ち合わせをしているところに偶然いた。そこでスケジュール表を見たのだが、3部に分かれていて途中10分ごとの休憩が入る。30分の演奏の都度10分の休憩が入るので中だるみするのではないかと懸念する。そして予定されている曲を見ていて、教会で歌われる曲としての意味を感じることが出来なかったので、何か訴えることが出来る曲はないものかと思案して、嘗て僕が好きだった曲を歌わせてもらえば、何かを考えるきっかけにでもなるのではないかと思い、責任者に歌わせてとお願いした。 スケジュールが狂うことを心配して責任者は当然快諾は出来ないだろうが、時間が余れば最後に歌わせてくれることになった。心優しい人が集まる教会は、それはそれで居心地がいいが果たしてそれだけでいいのだろうかと、日々疑問に思っているから、心地よさの中に加わることが出来ない人達を歌った唄を歌ってみたかった。でもそんな思いは勿論責任者に届くわけがなく、出演者に伴奏をしてもらったらと、ひどく出演者に気を使っていた。責任者と出演者は知り合いみたいだから、僕が介入することを好まないだろうが、ただ、僕も3年くらい教会でギターを弾いて歌っているから、ギター片手にフォークソングを歌うことくらい出来るだろうくらいは想像できそうなものだが。 まあその辺りはいつもの僕のおきまりの立ち位置として、今日鍼の先生と電話で次のような話題で大笑いできたからいいとしよう。どうせ僕は主流を嫌って放水路くらいでしか生きることが出来ない人間だから、余った時間くらいが分相応なのかもしれない。  鍼の先生もフォークソングが大好きな人だから、当日のコンサートを聴きに来てくれる。僕が1曲でも歌わせてもらえるかどうかに興味を持っていて、色々助言してくれる。実は昨日、責任者からコンサートの最後ではなく、休憩時間に歌ってくれと言われたことを彼に伝えた。休憩時間はさすがに教会では、お客さんにお茶やお菓子を振る舞う時間に当てている。勿論トイレに行く人も多いだろう。そんな時に唄で何を訴えることが出来るのだろうと、ほとんどやる気を失っていたら、彼がそんな時だからこそと励ましてくれた。そんな状態で唄って人の心を掴むことが実力だというのだ。それはそれで正論だが、僕には出来そうにない。「大和さんは、席を立って休憩コーナーに行っていた人が戻り、トイレに行くのも我慢するような唄を歌わなければならない」と言われたが「僕が歌い出したら、今がチャンスとみんながトイレや接待コーナーに集中するだろう。そればかりではなく、こことばかりに帰りたがっていた人達が、そっと消えていくのではないか。それもまだ日が明るいのに、フェリーの最終に間に合わないとか、歩いてきた人までが直島や高松に出る船に間に合わないとか、考えられる最大の断り文句を使っていなくなるのではないの」と答えた。答えながら僕も笑いをこらえられなかったが、彼も思いっきり笑った。お腹の底からの久しぶりの笑いに全身の力が抜けるようだった。こうした一瞬でも身体の弛緩状態を作れるのが、若いときに同じ時間を過ごした人間同志の特権かもしれない。この最大の自虐ネタをぶら下げて日曜日マイクの前に立てるのかどうかはなはだ心許ないが、テンションは地球の裏側まで落ちている。  もうこうなれば、教えの通り教会に適している人を連れて行く。勿論歌が大好きだから喜んで誘いに乗ったが、懺悔のネタには困らない人だ。招かれざるにして、最大の招かれるべき人だ。僕が歌いたかった唄のタイトルみたいな人だ。場違いな空間で彼が何を思うのだろう。玉野競輪が近くにあることだけが気がかりなのだが。