偽札

 「えらいことがあるもんじゃよ」と、長年県境付近から漢方薬を取りに来てくれる老人が、もったいぶったように話し出した。なんでも、偽札を掴まされたというのだ。体調の報告は上の空で、今日の来局の主たる目的はこの偽札の話であることはすぐにその必要以上に落とした声で分かった。犯人ではないのだから大きな声で話せばいいのだが、どうやらこの種の話はひそひそ話でないと臨場感が出ないらしい。 偽札は、奥さんに渡そうとした今月の生活費の中に紛れ込んでいたらしい。勿論僕はそのようなものに遭遇したことがないからどのようなものか分からなかったが、僕が尋ねる前から老人はその説明に入り出した。なにでも、漢数字で書かれた一万円と言う字の下にあるべき光るシールみたいなものがないそうだ。その上福沢諭吉が両サイドに二人いるそうだ。失礼ながら、僕は笑いをこらえるので懸命だった。どのくらい精巧に作られたものを見破ったのだろうと期待していたのだが、シールはともかく、諭吉が二人いたらさすがに誰でも気がつくだろう。どの様な流通経路を辿って老人の元に来たのか知らないが、僕の迷探偵ぶりでも直近の人間だというのが分かる。諭吉が向かい合っているようなお札が気づかれずに人の手から手に渡るはずがない。ババ抜きでもあるまいし。  「ご主人、洋服の青山に行ってすぐスーツを買って来たら?それを警察に持っていったらマスコミが一杯集まって、ご主人は有名人になるよ。インタビューの練習もしておいたら?岡山弁では品がないから、言葉の最後にですとか、ますをつけた方がいいよ」煽る僕に「そんなことになったら近所の人にめいわくじゃ」と返したがまんざらでもないらしい。 長い間山の急斜面でブドウを作ってきた体は日焼けしてしわだらけだが、そのしわをもっと深くして照れ笑いを連発する姿は、何ともほほえましい。降って湧いたハプニングにちょっとは悪のりして日頃の憂さも晴らしたいだろう。今日は1万円損をした事を忘れるくらい至るところで話題にするのだろう。でも諭吉が二人では緊迫感がないなあ。  「ここの薬はよくきくんじゃ」と言いながら帰っていったが、果たして何に効いているのだろう。この文章を書きながら未だ僕は笑いをこらえることが出来ない。