駅伝

 枕元で話したら病人に聞こえるのではないかと気がきではなかったが、家族の一人は苦しまずに逝ってくれればそれだけでいいのですがと、麻薬で虚ろになったおばあさんを気遣っていた。家族としたらその通りだと思う。誰にだって最期はあり避けることが出来ないとしたら、苦しみ少なくと願うのは古今東西みな同じだ。優しい声で独り言のように聞こえたが、そうだねと思わず同調した。 僕はその時点ですでに最後の薬を考えていた。肺炎にでもなって数日でスッと消えるように亡くなることが出来たらいいなと思ったのだ。幾ばくか長らえてガンの痛みに耐えるよりはるかに楽だと思ったのだ。それと勿論本人には希望を与えたかった。調子が落ち着いたら家に帰りたいという言葉を聞いてから、希望を持ち続けて欲しいと思ったのだ。治るなんて期待できないから、今の苦痛から解放される日が必ず来るのだと希望を持って暮らすことが出来るようにしてあげたかったのだ。それが例え全く効かない薬でもいいと思った。長年世話をしている僕が薬を出すことに意味があると思った。  その薬を渡して2日後にまったく食べることが出来なかった人がうどん3本を食べた。そして今日見舞いに行くと、僕がもっていた大きなクッキーを食べるから頂戴と言って、あっという間に食べてしまった。あれからなにでも食べているのよと言う言葉に驚いたし嬉しかった。会話もほとんど出来なかったのがあっという間に返事が返ってきて、見舞っていた2時間余りほとんど喋り続けた。内容も完璧だった。医師ももうすぐ点滴がとれるかもしれないから頑張って食べてくださいと助言してくれたらしい。  体の中で何が起こっているのか分からない。勿論痛みを消してくれた医師の力が大きいが、奇跡でも起こるのではないかと思わせるほどの回復ぶりにあの処方が少しは貢献したのではないかと思っている。寧ろ効果よりも希望を託して選択したものだが、ひょっとしたら期待以上、いやそんな言葉では表現できないくらいの働きをしてくれているのではないかと思った。ただ悲しいことに薬局ではその効果を再現できない。だから今回偶然良い働きを示しているだけかもしれないのだ。再現性がない限り、誰にでも勧めるわけにはいかない。僕らの職業の悲しいところだし、力が及ばないところだ。日常しばしば遭遇する症状に対してはおよその確率は自分なりにデーターを持っているが、出会い頭のように薬を出すことは出来ないから、今度の経験は単なる出来事の域を出ない。ただ、その出来事が好ましい出来事だったから胸をなで下ろしている。  生命力の固まりのような高校生が駅伝で走っているのを横たわってテレビで見ていた。どんな気持ちで見ているのだろう。