大嘘

 ふらっとやってきてくれた。久しぶりだ。決して忘れているわけではないが、もう患者さんではないから普段は気にはならない。  別に嘘をついたわけではない。事実を正直に話しただけだ。結果的には大嘘だったが人生を救った嘘だ。まあ、本人も笑って許してくれたのだからいいだろう。 母親と二人が涙する姿が印象的だった。一目で優しいよい子だってことは分かった。インターネットで僕を捜したらしいが、県内ってことが幸いした。2週間分ずつ薬を取りに来るたびに一杯話をした。高校はなんとか卒業したらしいが、先生になる夢は諦めた。フリーターみたいなことを数年していたのだろう。過敏性腸症候群(緊張するとお腹が鳴る、お腹が張って苦しい、残便感がありトイレばっかり行く、げっぷ、ガスがお腹を移動して苦しい、レントゲンで胃の空気が人の倍ある)で出来ないことばかりだった。青年期にするべきことをほとんどしていなかった。 漢方薬を作るときに、僕は現場で治る、現場でしか治らないと言っていた。漢方薬を飲み始めてまず、空気がお腹の中を移動するのを感じなくなった。その次にはげっぷが異常に出ていたのが治った。そして何回もトイレに行かなければならないのが減ってきた頃、友達3人と車で四国まで買い物に行った。又美容院にも行けた。次なる現場は映画と静かな図書館だったが、それも次第に克服できた。すると彼女が自分で医療系の専門学校に行ってみたいと言ってきた。僕が誘導したのではないからこれには驚いたし、とても嬉しかった。青春期を失意のうちに過ごしている若い女性が失った時間を取り戻そうと決意した瞬間だ。最も不安な場所に戻っていこうとするのだから並大抵の勇気ではいけない。僕は、勇気を振り絞っている彼女を安心させたかった。大学の実像を知らずに、勝手に想像して不安がっているから僕の体験を教えてあげたのだ。そうすれば如何に高校までとは違って自由なのかが分かり、ハードルが低くなると思ったから。僕のありのままを教えれば誰だって大学になんて簡単にいける。  僕の学生時代は単調な生活だったから、説明も簡単だ。昼前に起きて学校に行き、110円の定食を食べ 、劣等生同志、食堂で煙草を吹かしながらくだらない話をする。その後バスで柳ヶ瀬に行き、パチンコ屋に入る。もうかれば喫茶店でコーヒー1杯で2時間ねばり、負ければうなだれてアパートに帰り、麻雀をしながらくだらない話で夜明け近くまで過ごす。授業はたまに出て、出席の返事だけして教室を抜け出す。試験前になると過去問だけ丸覚えする。あたれば幸運、はずれれば潔く諦める。滅多あたなかったから5年かかったが、今思えば5年は出来すぎだ。幸運としか言いようがない。  ざっとこんな説明をした。要は、大学なんて遊びに行くようなものだから、気楽にいけってことだ。幻想を抱いて高校の延長みたいに考えるなってことを言いたかったのだ。彼女はかなり気が楽になってよく勉強し合格してしまった。ところがこれが実は大嘘だったのだ。僕は医療系の専門学校がそんなに勉強しなければならないとは知らなかった。席は指定されギュウギュウ詰め。時間は90分授業。それが1日何コマかある。宿題は多いし、試験もしばしば。それでも彼女は大丈夫だった。スリムで冷え性で体力には恵まれていないが、よく勉強した。失ったものを少しずつ取り返し、友人が出来、帰りが遅くなったら泊めてもらったりし始めた。あげくは彼氏まで出来た。そうして僕の漢方薬と縁が完全に切れた。 ふらっと寄って、学生生活のことを教えてくれた。専門学校というものの実体はそうなのかと認識を新たにした。もう1年半で、彼女は医療の現場に出る。なんて素晴らしいことだろう。彼女は僕の大嘘には驚いたらしいが、「先生が現場でしか治らないと何度も言っていたのが良く分かります」と言った。今では120分授業もあり、一番前の席になっても、お腹のことなんか全く考えないらしい。それよりも授業のことで必死ならしいのだ。お腹のことなんかに構っておれないとも言っていた。「人生で一番大切なのはお腹ではないものね」と僕も答えたが、まさにその通りだ。お腹を治すために一生を捧げるのではない。やりたいことに邁進すること。それにつきるのだ。お腹を治すことは唯一その為なのだ。  僕の時代の事実は、現代では嘘になっているのかもしれないが、一人の素敵な女性の人生をその嘘が救えた。ちなみに当時の劣等生仲間は現在では、医者もいるし歯医者もいるし製薬会社の学術部長もいるし、薬局の経営者もいるし、あの頃を未だ引きずってロマンチックに生きている人もいる。恐らくみんなそれなりに社会に居場所を見つけて何とかやっているのだろう。劣るってなんて素敵なのだろうと最近しばしば思う。優った経験をしていないから分からないが、劣りっぱなしってなんて気が楽なのだろう。最終的には全てを失うのだから守りたいほど持たないことだ。特に心はやたら飾ろうとしないのが楽。