原風景

 勝手なもので、大きな感謝には気がつくが小さな感謝は気づかずに素通りしてしまうことが多い。さすがに大きな利益をもたらされれば、有り難うの言葉も素直に出るし、下げる頭も自ずと深くなる。体中で感謝の意を表すことにはばからない。  ところが小さな感謝にはなかなか気がつきにくい。何の利益ももたらされなければ尚更だ。後ろに山がそびえ、小川が流れ、田畑が広がる。小動物が臆病に顔を出し、虫が土中から這い出す。小鳥は低く飛び、泣き声で季節を奏でる。老いた農夫が一輪車を押して農道をゆっくりと下ってくる。収穫の重みに膝が湾曲する。この原風景にこそこの国の人は生かされている。高層ビルの中で、あるいは堅牢な部屋で机に向かっている人に生かされているとは思えない。その原風景にどのくらいの人が感謝しているだろう。五感を研ぎ澄まさなければ気がつかない恩恵にどのくらいの感謝の気持ちを捧げることが出来るのだろう。そこにあるだけで、そこにいるだけで感謝しなければならないものたちに心を向けることが出来ない。山を拝み大木を拝む感謝の気持ちこそがかけがえのない宝だと思うのだが、残念ながらその宝はとても口べたではにかみ屋だから、多くの人が気がつかずにただ素通りするだけだ。  小さな感謝を口に出来る感性を持ちたいと思うが、口から出るのは果てのない欲求ばかりだ。これ以上何を求めるのだろう。欲しいものが分からないくらい欲しがり、結局残しておきたいものは何もないのに。