堤防

 決して目の錯覚ではないと思う。何となく違和感があるなと思いながらかなりの距離を運転していたのだから。確かめたくてスピードを落としながらゆっくり見てみたが、何度繰り返しても同じだった。降りて実際に確かめればいいのかも知れないが、そこまでする理由もない。  玉野市にある教会に急ぐために、岡山市から一級河川旭川の堤防を下った。やっと車がすれ違えるほどの狭い堤防だが、信号はないし対抗する車も少ないから急いでいるときには時々利用する。南へ下るときには、右手に河の水面、左手には住宅が密集、あるいは所によっては点在している。見渡す限り岡山平野が続いている。  今日は明らかに、河面の方が堤防の下に広がる住宅地より高かった。走りながらの感覚だが、2メートルくらいは高いのではないかと思った。恐らく堤防がない頃は河の水がこの辺り一帯に養分を運んでいたに違いない。人が堤防を築き、多くの土地を得たのだと思うが、考えてみれば頼りないものだ。河より低いところに多くの人が住んでいることになる。時折ニュースで見る光景(堤防が決壊して河の水が町を目指して流れていく様)は、このような状態だから起こるのだろう。水は決して低いところを流れているのではなく、人が高いところを流れるようにしているのだ。いつの時代に作られた堤防で、構造がどうなっているのか全く分からないが、決して壊れないものという大前提でみんな暮らしているのだ。堤防沿いの人なら分かるだろうが、ちょっと離れればそれは理解できないだろう。 数年前牛窓が台風の高潮でやられたとき、結果論でここが低かった、あそこは高かったなどが分かった。平坦な道路だとずっと思っていたのに、被害を免れたり、被害に遭うなどの差があることが分かった。淡水湖が見える辺りでその差は感じなくなったが、結構日常も危ういバランスの上に成り立っているものだと思った。