防波堤

 心も肉体も限界まで耐えると悲鳴を上げる。悲鳴を上げれる人は幸いで命拾いをする。悲鳴が鬱々とした心か、食べれないか、寝れないか、あるいは極度の疲労か、あるいはそれらの複合か分からないが、結局は命を守られている。命を守られている反応で、命を粗末にするなんて事も多いが矛盾も甚だしい。ただ、ある日突然当事者になったとき、それらの理性は働かない。出来るだけ誰かに頼って、客観的な判断をしてもらい、頼ってみるのがいい。そうすれば、付き物がとれたようにスッと嘗ての自分に帰れる。  漢方薬って不思議だ。特に僕が去年の夏心身共にばてて気を患ったときに自分のために考えた処方で多くの人の役に立てている。気を治すのに身体の薬を使い、身体の薬を治すのに気の薬を使った。どちらもが切っても切れない関係で僕を支えてくれていることが分かる。  絶対治って欲しい人の笑顔が見れた。何でこんなに苦しまなければならないのかと初めて相談を受けたとき辛かった。でもまるで1年前の僕そのものではないか。きっと、僕が飲んだ漢方薬で治ってもらえると思った。人には治る力が驚くほど備わっているのだ。それを補ってやれば自然と不調は矯正される。  恐らく元々控えめな方なのだろうが、ニコッとして帰られたのを見て家族で喜んだ。治療にえこひいきがあってはいけないが、より悲しい人が復活していくのを目撃できるのはこの上ない喜びで、その日の薬局の中が輝く。僕らの力ではこの輝きは点灯できない。喜びのスイッチを押してくれるのは、縁あってやってきて下さる人達なのだ。丁度そのとき宣伝会社から、広告の勧誘の電話があった。常連のカリスマ薬局2件の名前を挙げてお宅もと勧誘してきたが、その名前を聞いただけで断った。こんな日常の喜びを白々しい広告で失いたくない。僕はまだ気恥ずかしいという防波堤を持っている。荒波を防ぐ防波堤ではなく、自分が崩れていくのを守る防波堤を。