プリン

 若いセールスが、岡山駅に出来た新しい店で売っているプリンがとてもおいしいと教えてくれた。最近岡山駅は改装して、多くの店が出店され新しい商業施設となっている。久しぶりに利用すると迷ってしまうほどだ。何度か乗り換えで新しい店が並んでいる前を通過することはあったが、買い物が苦手な僕はまずその種の店に立ち寄ることはしない。  それでも甘党の僕としてはそのプリンのことが気になっていた。教えて貰ってから3週間たつが、駅周辺に毎週行っているにかかわらずやはり自分で買う気にはなれない。まして、セールスから並ばなければならないかもしれないと教えられるともう気持ちは萎えてしまう。食事をするにしても、並んでまで美味しいものを食べるくらいなら、不味くてもすぐ食べれる店を選ぶくらいな僕だから。今でも食事は空腹を満たすだけのものといういたって現実的な体験から得た価値観しかないので、こりがほとんど無いのだ。学生時代、米を炊き塩をかけてお茶漬け(?)だけで過ごす日がしばしばだった。カップヌードルが買え、それを米にかけて食べれたら贅沢だった。勿論バイト代が入ったときなどは唐揚げを食べたりしていたが。気持ちはそのころからほとんど進歩していないと思う。  念願のプリンを娘が昨日買ってきてくれた。なるほどとろけるようなプリンで、口の粘膜に冷たさが心地よい。甘みは少し抑えられていて、飲み込むのが惜しいくらいだった。僕はカップから出さずにスプーンですくいながら食べたが、逆さまにして皿の上に出すと形状が保たれるのだろうかと一瞬考えた。どうでもいいことなのだが。と言うのは、値段を聞いてもう買ってまで食べるっことはないだろうなと思ったのだ。1つが315円だと娘が教えてくれた。その値段は買えないものではないが買えないのだ 。ちょっとしたぜいたくで得られるのは高々1分くらいの味の快感なのだ。その1分が僕の日常に必要だとは決して思えない。むしろそのプリンを食べながら見ていたテレビの画面で映し出される灯油高でお風呂にはいる回数を減らしている母子家庭の映像の方が、遙かに僕の心を打った。日本の貧困は、外国の生きるか死ぬかをさまよう貧困とは比べものにならないくらい贅沢かもしれない。しかし、何百万単位でいる、ぎりぎりの生活者の報道はやはり見るに忍びない。一度健康を損なえば一気に転落してしまう危険性を大いにはらんでいる。その恐怖はそうでない階層の人には想像できないのではないか。庶民に出来ることは少ないが、せめて必要のない贅沢はすまいと思った。