老人が1時間以上しゃベっただろうか。僕は相槌を打ちながら、時々自分の考えも喋った。心の病を患っている家族がいて、その人の世話をしている。話し終えて帰ろうとした時、今日は心療内科に行く日だったけれど、もうこれで行かなくていいと言った。本人もまた心労で心療内科にかかっているのだ。こんなケースは結構ある。僕は心療内科のお医者さんがどんな診察をするのか知らない。素人の僕が代わりをすることはできないけれど、2週間に1回、或いは1ヶ月に1回、定期的に診察するだけで、この老人の苦しみを軽減出来るのだろうかと思った。当然病院だから、この種の患者さんにも薬物治療が中心になり、それで勿論いいのだ。薬物で治るのが一番簡単だ。それを補助するものとしてカウンセリングなどがあるのだろう。あくまで薬物が中心で、カウンセリングが中心ではない。  子を思う親の愛情は知性や理性ではない。ほとんど動物に近い脳の働きの部分に、母性や父性はあると思う。だからだれもが親になれる。ただよい親であるかどうかは、動物的な本能だけでは保証されない。大局的な寛容の中に、許されない聖域は存在する。時には本能が知性肉に屈服し、時には本能が理性に勝る。葛藤の坩堝の中に愛情のはしごが降ろされ一段ずつ不器用に上っていく。  親を止めることが出来ない後ろ姿は、恨み事ひとつ口にしない。