センター試験

 僕は勿論だが、子供たちがその儀式を通過してからもうかなりなるので、若干その独特の重苦しさは忘れている。不本意な結果を挽回するのに1年を要するシステム故に、失敗を恐れるプレッシャーはかなりだと思う。本人よりもむしろ家族のほうがピリピリしているかもしれない。僕の経験でも、自分の時より子供たちのときのほうがストレスだった。自分の場合は、ほとんど受ける前から分かっていた。無理なところは余程の幸運でもない限り通らないし、たやすいところは遅刻でもしない限り通る。そして、余程の幸運も、余程の不幸も起こることはない。誰もが実力通りに収まるところに収まっている。不釣合いなところにはいない。奇跡で通ったり、奇跡で落ちたりしたらそれは本当の不幸だ。  例えば薬剤師。薬を作るのに、英語もいらないし、歴史も必要ない。大学に入る力は、そこまでの力でその後を何ら保証しない。学歴で薬は作れないし、まして高校の成績でも薬は作れない。明日明後日に繰り広げられる儀式は、老人が作った難問奇問を若者が解く単なるゲームだ。ゲームの答えを書いておいで。老人が驚くような正解を見せつけてやれ。何が試験だ。人格の極一部さえ記憶力競争では分からないだろう。足を組んで、頬杖をついて、ゲームに答えてやれ。老人が、若者を食い物にしない様にゲームの答えを出してやれ。